ニート、歩き出す
20XX年 11月19日 東京
気持ちのいい秋晴れの午後、祥子はオフィス街の喫茶店で、年齢の近い女性と向かい合って座っていた。
女は頭を深く下げて「参加のご承諾、ありがとうございます。厚生労働省職業安定局の村田佳澄と申します」と言って名刺を渡してきた。今時珍しくスーツを着ており、ワイシャツのボタンもきっちり閉めている。美人だが化粧っ気はあまりなく、縁の大きな眼鏡が理知的なイメージを助長させている。左手の薬指には、銀色の指輪がはめてあった。
キャリアウーマン――今の祥子には眩しすぎた。よっぽど真っ直ぐ育ってきたのだろう。祥子は親の顔が見てみたかった。
祥子は「お願いします」と言いつつ、返す名刺がないことを恥じた。服装もスウェットにジーンズだ。しかし、村田は気にも留めず「それでは早速概要から説明させていただきます」とタブレット端末を鞄から取り出した。
タイムトラベルする時代は二〇一八年、場所は東京、期間は一ヶ月と事前研修として一週間、勤務先は広告代理店。概ね事前にメールでもらった要項の通りであった。
二〇一八年――祥子は思いを巡らせる。両親が結婚する前、付き合っている時だった。それに両親ともその頃は東京で働いていたはずだ。村田が続ける。
「現在と違う社会構造、技術、人々の価値観。そういった中での経験は必ず次のキャリアに活きるものであると我々も自負しております」
祥子は話半分に聞いていた。生真面目に説明をする村田には悪いが、自分のキャリアなんて今はどうでもいい。
「続いて注意事項です。川上さんは『親殺しのパラドックス』という言葉を知っていますか」村田が尋ねる。
「親殺し」と聞いて祥子はどきりとした。動揺を悟られないように「はい」と答える。端的には、過去に戻って親を殺すと自分は生まれてこないという矛盾のことだ。
「その言葉に代表されるように、過去に著しい変化を及ぼす行為はしないようにお願いします」と村田は言った。
過去に著しい変化を及ぼす行為――祥子は再び思いを巡らせる。母をあの最低な父と結婚させないようにすることも、その行為にあたるだろうか。
「川上さん」村田が祥子を覗き込む。「大丈夫ですか」
「あ、大丈夫です。ちょっと考え事しちゃって」祥子が答える。
「もしかして、お母様のことでしょうか」
「え…」祥子は心臓が止まりそうになった。なんでそんなことを知っているのか。
「川上さんにお申し込みいただいてから、我々調査させていただきました。お母様が一年前に亡くなられていますね」村田が眼鏡を押し上げる。
「事前に申し上げておきますが」村田が祥子をじっと見る。「過去に戻ればお母様を助けられるなどとお思いのようでしたら、絶対におやめください。先ほども申しましたように、過去を変えること、それも人の生死に関わる改変には、必ずその代償が発生します。現在に帰ってこられなくなる、もしくは、あなた自身が消えてなくなることだって…」村田は唾を飲み込んだ。
なんだ、そんなこと――祥子は言葉にしかけてやめた。
母がこの世にいないのならば、母に対する罪悪感に苦しみ続けるのならば、私なんていなくなってしまった方がマシだと、祥子は思った。しかし、それを言うと話が面倒になりそうなので「はい、分かりました」と答えた。
「私の仕事はあなたのキャリアアップ、人生の再スタートを支援することです。もっと言うと、あなたの『幸せ』を応援することです。川上さん、あなたは『幸せ』になりたくはないですか」村田が問う。それまでの事務的な口調から、感情が表に出てきていた。
祥子はハッとした。幸せになりたいか――近頃考えたことがなかった。幸せになりたいなどと考えないことこそが、母に対する償いだと思っていた。
「私、幸せになるべき人間じゃないんです。私のせいで母は死んだ。母の人生を私が奪ったんです。そんな人間が幸せなんて考えちゃいけないんです」祥子は思ったことを素直に言った。
「そうですか」と村田は言ったきり、下を向いて考えこんだ。そして、こう尋ねた。
「では、お母様は生前、なんと仰っていましたか。幸せになるなと仰っていましたか」
そんなこと――なかった。祥子は古い記憶を掘り起こしていた。あれは中学生の頃だっただろうか。
当時母は父の借金を返すために、昼はスーパーマーケットで、夜はスナックで働いていた。そんな母に祥子は「お母さんの幸せって何?」と聞いたのだ。
母を気遣ってのことではなかった。思春期の祥子にとって、母親が夜の商売で働いているということは恥ずかしく、堪えられないことだったのだ。母はこう言った。
「何ってそりゃあ、あんたが一人前の大人になることよ。お父さんがいなくなったのは私のせい。罪のないあんたが何不自由なく暮らしていけるように頑張るのが、私の身勝手な罪滅ぼしなのよ」
祥子は当時、特にこの言葉を気にも留めていなかった。そして母は最後に祥子の肩に手を置いてこう言ったのだった。
「だからね、祥子。絶対に幸せになりなさい。あんたの幸せが、私の幸せ」
祥子は全ての言葉を思い出して、涙がこぼれた。ハンカチをポケットから取り出し、目に当てる。
「幸せになりなさいって、そう言いました…。私が幸せになれるように、母は頑張って働いてくれていました。なのに私、このままじゃまた親不孝者だ…」ハンカチが涙で濡れていく。周りからの視線を感じるが、気にしていられなかった。祥子はこれまで蓋をしていた心が一気に開いたようだった。
「大丈夫です」村田は顔を上気させて頷いた。「あなたが幸せを取り戻せるように、全力でサポートしますから」優しく微笑んだ。
この人と話せてよかった――祥子は心からそう思った。
「それでは、最後の注意事項なんですが」そう言って村田はタブレットに目を落とす。口調はすっかり元の調子に戻っていた。
「自分がタイムトラベラーであることは絶対に明かさないで下さい。永久に現在に帰ってこられなくなります」
「しませんよ、そんなこと」そういって祥子は笑ってしまった。そんなことを昔の世界で言ったら、変人の妄言もいいところだろう。
村田は不思議そうな顔をして、祥子を見た。
店を出る時にはすっかり日が傾いていた。別れる直前、祥子は村田に聞いてみた。
「村田さんは今幸せですか」
村田は考える間もなく「幸せですよ」と微笑んだ。指輪が夕日に反射して輝いた。
礼を言い、村田と別れる。一人になって祥子は考えた。自分は幸せになれるだろうか、なってもいいのだろうか。分からない。ただ、村田に会う前よりは気持ちが前向きになったのは確かだった。
祥子は駅までの道を、ヒールを鳴らして闊歩した。開始のゴングを鳴らすかのように。




