ニート、思い出す
20XX年 5月20日 埼玉
大好きな人が手を振りながら去っていく。その顔は悲しげだが、僅かに微笑んでいる。手を伸ばしても届かない。鉄球でも括りつけられたかのように足が動かない。
待って、待って、待って――。
川上祥子が目を覚ますと、そこは自分が住むアパートのベッドの上だった。全身びっしょりと汗をかいている。
ゆっくりと祥子は身体を起こす。いつも通り――寝ている場所も、見る夢も。
祥子はテレビの横にあるカレンダーに目をやる。「あの日」からちょうど半年が経っていた。
三年前、母がうつ病になった。母の面倒を見るために、祥子は好きだった旅行会社の仕事を辞め、勤務地や時間に縛られない事務職に転職した。贅沢も旅行も何一つ出来なくなった。結婚も当分諦めなければならなくなる。
それでも、女手一つでここまで苦労して、消えた父が残した借金を返し、大学まで通わせてくれた母を祥子は心から感謝していた。その恩を返せたらと思って我慢してきた。
だが、母のうつは「非定型うつ」というもので、気持ちの浮き沈みやイライラを伴い、相手を攻撃してしまう症状があった。祥子もたびたび喧嘩、というよりは些細な言い合いをするようになった。
「誰があんたに世話しろって頼んだ!私は一人で生きるんだ、邪魔をするな!」去年のある日、母は叫んだ。
二年間我慢してきた。これまでのように、病人の戯言だと受け流すことも出来たかもしれない。しかしもう祥子は限界だった。
「一人で生きたいんなら、誰かに迷惑かけてんじゃないわよ!私もう知らない」激情に任せて口走ってしまった。
「お母さんなんて、いなくなっちゃえばいいのよ!」そばにあったボールペンを机に叩きつける。それは、祥子が小学生の頃、母の日にプレゼントしたものだった。ハートの形をした柄の部分が砕けた。
しまった――祥子は我に返ったが、口にしてしまったことは取り返しがつかない。だが、それだけ思いが溜まっていたのも事実だった。
母が泣き出した。大人とは思えない叫び声で、咽ぶように泣きじゃくった。泣きたいのは祥子も同じだった。
「ごめんなさい、言い過ぎた。泣かないで」
親子関係が逆転してしまったみたいに、祥子が母をあやす。ここ二年で見慣れたとはいえ、母の涙を見るのは辛いものがあった。
泣き疲れて寝てしまった母を抱きかかえ、祥子は寝室のドアを開けた。そっと横たえて毛布をかける。
一人になって、祥子は涙が出てきた。祥子まで壊れてしまいそうだった。
翌朝、祥子は母が起きてこないので、寝室へと起こしに行った。「おかあさーん」ノックし、ドアの外で呼びかけても反応はない。ドアを開けて戦慄した。
母はカーテンレールから伸びた紐にぶら下がっていた。死んでいた。
祥子はその場で気を失ってしまい、気が付いた時には病院にいた。その後の記憶は断片的にしか残っていない。




