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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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増田男対艮 その1

 あれから半年が過ぎた。三月も半ばになり、埼玉県北部にある山間の村、久須にも春が訪れようとしていた。とはいえ、朝晩ともなれば山から吹き下ろす風はまだまだ冷たく、その日の朝も通りを行き交う村人の姿はなく、村を通り抜ける風が寂しげに吹くばかりだった。

 一台の列車が久須駅に到着した。しかし駅員もいない久須駅を利用する乗降客の姿はなく、列車は機械的に扉を開くと、すぐに閉まり、再び久須駅を後にした。

 普段は稽古で賑わう友沼部屋のある一画でさえ、この日の朝は時が止まったようにシーンと静まり返ったまま、もの音一つ聞こえてこない。

 風に巻き上げられた一枚のポスターが電信柱に絡み付き、埃を被ったまま道端に落ちてきた。そこには大相撲春場所と書かれた大きな黒い文字の下に、友沼部屋の力士たちが力強く腕組みをしながら直立不動で並ぶ、廻し姿の写真が印刷されていた。

 年に六場所ある大相撲の本場所のうち、三月の春場所は大阪で開催される。親方や力士といった友沼部屋の面々は、皆こぞって大阪へと出かけていたのだ。

 今から半年前、秋場所で十両昇進を果たした千大王(せんだいおう)は、友沼親方の予想に反して陥落することなくその地位を守り続け、幕内昇進も近いのではないかと言われるほどになった。そして三段目だった日の出山(ひのでやま)は幕下に昇進し、その他の力士たちも少しずつではあるがその地位を向上させていた。だが増田男(ますだお)だけは、相変わらず序二段の中を上がったり下がったりと、進歩のない力士生活を送っていた。

 春場所も八日目を迎え、ここまで増田男は2勝2敗と五分の成績だった。そしてこの日はこの場所5番目の取組を迎えることになっていた。言わば勝ち越しと負け越しの分岐点ともなる、大事な一番だ。しかし携帯音楽プレーヤーで大好きなミスチルの曲を聞きながら歩く増田男のリラックスした表情からは、そんな緊張感は全く伝わってこない。まだ人出もあまりない閑散とした雰囲気の大阪府立体育館の中を、土産物屋などを覗きながらいつものようにひょうひょうと歩いている。

 175センチ83キロという一般男性と変わらぬ体格で、入門時からほとんど体重は増えていない。やがて太るからと大きめのものを新調した浴衣はブカブカのままで、髷を結ってはいても、そこに力士としての威厳など微塵もない。一体、この男には出世欲はあるのかと、友沼親方でさえやきもきするほどである。

 突如、右の耳に着けていたイヤホンが外され曲が途絶えた。

「よお、増田男。久しぶりだな」

 上から見下すような威圧的な声にハッとして振り返ると、そこにはかすかに見覚えのある男の大きな顔があった。大好きな『HANABI』がかかっていて、折悪しく「もーいっかいもーいっかーい」を絶叫するところで自身もそれに合わせて口を開いたままだったことに気が付いたが、如何(いかん)ともしがたいこの気まずさは今さらどうすることもできぬと諦め、消え入りそうな声で「もーいっかいもーいっかーい」を繰り返した。しかし懸命の増田男の「もーいっかい」も、男の威圧的な顔で完全黙殺され、気まずさはいや増すばかり。

 しかし後ろからやって来ていきなり人のイヤホンをむしりとるなどという暴挙に出たこの男、浴衣姿であることから大相撲関係者であることは間違いないようだが、どこで会ったのかが思い出せない。

「あなたは……、確か……」

 必死に思い出そうと増田男が言い淀んでいると、男は苛つくように口の右端を上げ、チッと舌打ちをした。

「俺だ。牛窪寅蔵だ。半年前、千大王の祝賀会で会っただろう」

「ああ、あの時の――」

 と増田男は言いかけたが、あの時牛窪が酒に酔って大暴れしたことを思い出し、何と言えばいいのかと言葉に窮した。

「あの時はよくも俺様のことを『ウシグソ』などと侮辱してくれたな」

「えっ、そっ、そんなこと――」

「覚えてないっ、てか」そう言うと牛窪は、さらに苛ついたような早口でまくし立てた。

「とにかく、俺様がこの年齢で大相撲の力士になったのには、一つには貴様と対戦し、思いっきり土俵に叩き付けてやるというのが目的だ。だから今日の対戦では、そのつもりでいくから覚悟しとけよ」

「えっ、そっ、それじゃあ、今日の対戦相手の(うしとら)さんというのはもしかして――?」

 目を見開いて驚く増田男に対して牛窪は、「フッ」と下卑た笑いを浮かべながらこう言った。

「自分の対戦相手のことも知らないまま会場入りするとは、呆れるほど呑気な男だな。まあ、あの優しい優しい友沼親方に甘やかされているから、しょうがない、か。とにかく今日は、貴様を思いっきり土俵に叩き付け、その甘えきった性根を丸ごと鍛え直してやるから、ありがたく思え。じゃあな」

 それだけ言うと牛窪は、くるりと背中を向けて西の控え室へと歩いていった。その後ろ姿は増田男とは比べようもないほど堂々とした、貫禄ある力士のものであった。

 そして東の控え室に入った増田男は、すぐに千大王に電話をして、この日の対戦相手が牛窪寅蔵であることを話した。

「そっかあ。あの人が角界入りしたのは聞いていたけど、艮なんていう四股名(しこな)だったんだね」

 ちょうど午前の稽古を終えたばかりで、大阪場所の間、宿泊している寺の大部屋で休んでいた千大王の声は、脱力したようにのんびりとしたものだった。そんな千大王をせかすように、増田男は切迫した声で続けた。

「何だか分からないけどあの人、俺のことをかなり恨んでいるみたいなんですよ」

「そうなの? 何でだろうねえ。まあ、度量の狭い男の言うことだから、あんまり気にしなくていいと思うよ」

「でもあの人、貴様を思いっきり土俵に叩き付けてやるだなんて、おっかない声で言うんですよ」

「それは聞き捨てならないなあ。個人的な恨みを土俵に持ち込んじゃいけないよね。そう言えば自分も学生時代、あの人のシゴキで失神したことがあったっけ。特に右からの上手投げは強烈だから気を付けた方がいいよ」

「気を付けろと言われてもどうすればいいのか……。ねえ、千大王さん、何か有効な手はないですか?」

「う~ん、急にそんなこと言われてもねえ……」

 自身もこの日の取り組みのことで頭は一杯だったが、面倒見の良い千大王は手元にあった大相撲力士名鑑で、艮のページを開いてみた。

「なになに、えーと、艮寅蔵(うしとらとらぞう)。所属は野々村部屋で、今年の初場所、つまり先場所初土俵を踏んでいるね。一場所で序二段に昇格したということは、それなりの好成績だったのかな。187センチで138キロというのは、デビュー力士としてはかなり恵まれた体型だね。今はもうちょっと大きくなっているかも知れないよ。やっぱり得意技は右からの上手投げとなっている」

「それで、俺は一体どうしたらいいんですか? このままじゃ、大怪我させられちゃいますよ」

 刻一刻と取り組み時間が迫り、そんなプロフィールなんかどうでもいいからと、増田男は先を促した。

「う~ん、野々村部屋というのが厄介なんだよねえ……。あそこの野々村親方は、データを重視するID相撲で有名なんだ。データ重視、つまりImportant Dataだね。その頭文字をとってID相撲というわけだ。増田男君、聞いてる?」

「え、ええ……。それで、そのID相撲が厄介だっていうのは、何でですか?」

「つまり対戦相手の力士が、過去にどんな立合いをして、どんな相手にどんな相撲で勝ち、あるいは負けたのか、その全ての数字を統計化して、その日の取組ではどんな相撲をしてくるか、予測を立てながら対策を練るらしいんだけど、これが恐ろしいほどよく当たるらしい。"角界のノムさん"なんて呼ばれて恐れられているんだよ」

「そ、それじゃあきっと俺のことも……?」

「そう、増田男君が得意とする、立合いの変化や蹴手繰(けたぐ)り、それに猫だましといった奇襲戦法は、恐らく通じない」

「それじゃあ俺は一体、どうすりゃいいんですか?」

 増田男は、ただ善意で相談に乗ってくれているだけの千大王に、まるで責任を押し付けるかのごとく、声を荒げた。

「う~ん……」

 それでも人の良い千大王は、気を悪くするでもなく、何か良い方策はないものかと目を閉じて考えた。しかし瞼の裏に浮かんでくるのは、艮の圧力の前になす術もなく簡単に右上手を許してしまう増田男の姿だった。まるで万歳でもするみたいに情けない体勢で増田男が後退すると、ニヤリとした艮はもう一度右上手を強く握り締めて深呼吸をすると、情け容赦なく増田男を土俵に叩き付けた。

「ねえ、何とか言って――」

「ちょ、ちょっと待って!」

 千大王は、自分が今思い浮かべた場面の中に、何か良いヒントがあったような気がして増田男の言葉を遮った。そしてもう一度、今思い浮かべた場面を頭の中で反芻した。

「うん、うん、なるほど。ほう、ほう、ふ~ん」

「ど、どうしたんですか? 何か有効な手が見つかりました?」

 増田男の言葉が耳に入らぬかのように千大王は一頻(ひとしき)り同じような独り言を続けると、最後に「うん、うん、これだ。これしかない」と頷きながらこう言った。

「増田男君、これならいけるかも知れないよ」

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