丑寅祝賀会 その2
再び村の公民館に千大王が駆けつけると、そこに丑窪寅蔵の姿は既になかった。
「さっき、物凄い勢いで出て行きましたけど、その辺で会わなかったですか?」
そう増田男に言われ、がっくりと肩を落とした。
ビールに加え、日本酒もかなり飲んでいたというのに、その状態で10分もの道のりを慌てて走ってきたのだ。酔いは全身に回り、息は絶え絶えだ。
「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ……」
膝に両手を突いて頭を垂れ、息が整うのを待ったが、今度ばかりはさすがに厳しい。
戦績は全く振るわなかったとはいえ、曲がりなりにも大学の相撲部に所属していた男だ。正気を失ったまま一般人にでも襲い掛かれば大変なことになる。一体どこで行き違ったのかは分からぬが、とにかく千大王は丑窪を捜すために引き返すことにした。
「それじゃあ、俺も一緒に捜しますよ」
そう言って着いて来ようとする増田男を制し、
「その前に、ちゃんこ料理屋にいる日の出山に電話して、丑窪寅蔵という気の触れた男がそっちに向かっているから、店には入れないようにと、話しておいてくれ」と頼んだ。
そう言って来た道を引き返して行く千大王の姿が暗闇に消えると、すぐに増田男は日の出山に電話した。
「あー、もひもひ……」
電話に出た日の出山は既に、正体もなく酔っ払っていた。
「もしもし、俺です、増田男です。えーと、確か、ウシ……何だっけ?えー、その、ウシ何とかいう、酒に酔って正気を失った男が、こっちの会場を抜け出して、そっちに向かっているので、店には入れないように気を付けて下さい」
「おうっ、ほうかっ、俺に、任ひとけっ!」と日の出山は、大げさな敬礼のポーズでそう答えた。
「何かあったの?」通話を終えると、隣で酒を飲んでいた年輩の男が日の出山に訊いた。
「あー、らんだか、脱走した暴れ牛が、こっひに向かっているとかどうとか……」
「ああ、そうかい。それはきっと、源ちゃんとこのトラだな」そう言うと男は、膝を突いて離れたテーブルにいる男の方に首を伸ばし、「おい源ちゃん、お前んとこのトラが、また脱走したらしいぞ」と声を掛けた。
「ええっ、またかい」源ちゃんと呼ばれた男は渋い表情になると、「牛舎には確か、鍵を掛けといた筈なんだがなあ……。忘れたのかなあ、歳は取りたくねえなぁ」などと一頻り、弱音のような独り言を吐き、重そうに腰を上げた。
源ちゃんこと高橋源太郎は、自身が経営する〈源ちゃん牧場〉で、オスの黒毛和牛にメスのホルスタインを掛け合わせたこの地域特産のブランド牛を育てている。そしてそれを、観光マップにも載る隣町の人気レストランに卸していて、ここ久須村では一番成功している畜産農家だろうと言われている。
「おい源ちゃん、トラを捕まえに行くなら俺たちも手伝うぞ」源ちゃんが座敷を出て行こうとすると、そう言いながら7、8人の男が後から続いた。
「いやあ、いつも悪いね」
「いやあ、これくらい何のその。困った時はお互い様よ」
「どうせまた三郎んとこのモモに、夜這いでもかけに行ってるに違いねえ」
「んだんだ、きっとそうだ」
そんな風に男たちは、がやがやとどこか楽しそうにしゃべりながら店を出て行った。
その時丑窪寅蔵は、人気の絶えた久須駅のベンチに腰を下ろし、酒に酔って暴れた我が身に激しい自己嫌悪を感じながら、上り電車を待っていた。九月も下旬になろうかというこの時期、陽が落ちた後の小さな山間の村には、深まり行く秋を感じさせる冷たい風が吹き、ぽっかり空いた丑窪の心の隙間をいとも容易く通り過ぎて行った。
実はこの日丑窪は、大学の後輩である千大王を頼りに、友沼部屋に入門をお願いする積もりでやって来た。ところが祝賀会の席では、つい学生時代の調子で千大王に尊大な態度を取って怒らせてしまい、それどころではなくなった。
その時丑窪は理解した。千大王はもう、大学時代に自分たちのしごきで泣いていたあの男ではない。プロの厳しい世界で揉まれ、自分には手の届かない本物の力士になったのだと。
いや、本当は丑窪だって分かっていたのだ。25歳にもなり、学生時代だって試合になると全く勝てなかった自分のような者が、今さら大相撲の世界でやっていける筈もないことを。ただ自分は逃げようとしているだけなのだ。普通の会社に就職し、情けない営業成績のことで来る日も来る日も上司から説教される、そんな日常から。
あの時、祝賀会の席で千大王から蔑みの目で見られた丑窪は、そんな自分の弱さを全て見透かされたような気がして荒れた。酒に酔った勢いで近くにいた男に絡み、止めに入った男たちを振り払うと、何かを叫びながら大広間を後にした。
しかし公民館を飛び出した丑窪は、激しい目眩と吐き気に襲われてすぐに動けなくなった。目に付いた路地に入ると電信柱の陰で一頻り吐き、吐いているうちに何故だか無性に悲しくなり、嗚咽して泣いた。
しばらくして冷静になった丑窪は、自分が何をしようとしていたのかが分からなくなった。ただ自分はあの時、ちゃんこ料理屋にいる千大王の元に向かおうとしたことだけは覚えている。だが千大王に会って、何を話し、何をする積もりだったのかは覚えていないし、考えてみてもその答えは見つからない。
自分は一体、何をしたかったのか――?
次の電車が来るまではまだ20分近くもある。駅員もいない小さな無人駅には、老朽化した街灯の薄ぼんやりした灯りが寂しげに点灯しているだけだった。
その時、遠くの方で年輩の男たちが叫ぶ、微かな声が聞こえてきた。
「トラやー、トラやー、出てこーい」
「おーい、トラー、どこ行ったー」
丑窪は、寅蔵という名前から子供の頃はトラと呼ばれることもあったので、もしかすると自分のことを捜しているのかと思った。しかし、そんな見知らぬ男から親しげにトラなどと呼ばれる謂れはない。
すると今度は、反対の方からも声が聞こえてきた。
「丑窪せんぱーい、出てきて下さーい」
この声はどうやら、千大王のようである。せっかくの祝いの席を、自分のせいで台無しにしてしまったと申し訳ない気持ちになったが、今さらどの面下げて出て行けば良いというのか。
「ウシグソさーん、どこですかー?」
次に聞こえてきたのは、あの増田男とかいう頼りなさそうな力士の声だ。しかし丑窪を牛の糞とは何という失礼な奴だ。今度会ったらただじゃ済まさんぞと心に留めておく。
「ウッ、ウッ、ウヒクボしゃーん、どこれすかー?」
この全く呂律の回っていない男の声は、誰だか知らぬがこれでも友沼部屋の力士なのかと訝しく思った。しかし丑窪は、力士にも色んなタイプがいるものだと感心し、この程度なら自分にも力士がやれるのではないかと、逆に自信が沸いてきた。
「おーい、ここだここだー!」
丑窪はベンチから立ち上がると、声のする方へ大きく手を振り大声を出した。酔って暴れたことは素直に謝ろうと、そう思った。
一連の騒動が収まり再び千大王が宴会の席に着いた時には、時刻は既に午後10時を回っていた。
酒に酔った状態であちこち駆けずり回った挙げ句、「ご苦労だったな」と、友沼親方から杯を受け、勢いに任せて一気に飲み干すと、とたんに部屋の中がぐるぐると回り出した。
そんな状態の千大王に、「何か宴会芸でもやってくれ」とリクエストをしたのが誰なのかは定かでないが、気付いた時には芸達者の日の出山と一緒に、ピンクレディの『ペッパー警部』を「ペッパーでぶっ」などと即興で替え歌にして踊っていた――。
千大王は今、手にしているシワになったネクタイを見ながら懸命に昨晩の記憶を辿ったが、その先の記憶は途絶えたままだ。『ペッパー警部』は何とか唄い終えた気がするが、恐らくそこまでが限界だったのだろう。
ふらふらになった自分は酔い潰れ、自分のための祝賀会の筈が、まともに挨拶さえしていない。あの後いつまで宴会が続いたのかも知らないし、どうやって友沼部屋まで戻ったのかも記憶にない。ともすると昨晩のことは全部、夢の中の出来事だったような気にさえなる。いや、全てが夢であってくれたらどんなに有難いことかと思った。
このネクタイは日の出山と『ペッパー警部』をやった時に使ったのだな、と想像は付いたが、一体どのような経緯で親方のお気に入りのネクタイを自分の頭に巻く、などという暴挙に出たのかと考えると、恐ろしくて鳥肌が立った。
その時、ドタドタと廊下を近付いてくる慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、物凄い勢いで襖が開いた。
現れたのは友沼親方だった。見たこともない鬼の形相で息を弾ませている。
「うわあっ、親方っ、ご、ご免なさいっ!」
ネクタイを差し出しながら慌てて頭を下げた千大王だが、暗に反して親方は、千大王の方を見もしない。
「おいっ、日の出山に増田男っ!お前ら、今日の取り組みはどうする積もりだっ!」
すると二人はもぞもぞと動き出し、眠そうに目を擦りながら口々にこう言った。
「だって親方……」
「今日の取り組みのことは忘れて……」
「宴会を盛り上げてくれって……」
「そう言いませんでした……?」
それを聞いた親方は、いよいよ怒りを爆発させた。
「バカもーん!だからって、本当に本場所の取組をさぼる奴がどこにいるかっ!早く支度をしろっ!10分で出掛けるぞっ、このクズどもがっ!」
「ひえ~っ!」
「すみませ~ん」
埼玉県北部の山間にある久須村では、これからが本格的な実りの季節である。慌ただしく三人が出て行った後の大部屋には気持ちの良い秋風が吹き抜け、相も変わらず四人の力士による鼾の合唱が響き渡っていた。