丑寅祝賀会 その1
村の公民館に向かった千大王は道すがら、ファンの前で話す挨拶の言葉などを考えながら歩いたが、もしかしたら自分たち友沼部屋の関係者が誰一人いないせいで、まだ宴会も始められないのではないかと危惧し、浴衣に下駄という恰好であることも顧みず、途中からは駆け足になった。ビールを飲んだ直後だったこともあり、酔いが回り、息が切れた。
会場となる大広間の前に着くと息を整え、「本日は私、千大王のために、はるばる遠い所からお越し頂き誠に有り難うございます。これからも皆様の期待に応えられるよう、一所懸命頑張りますので、応援のほど、よろしくお願い致します――」と、道々考えた挨拶の言葉を頭の中で反芻しながら襖を開けた。
中では一人の男がマイクを片手に、梅沢富美男の『夢芝居』をやたらと芝居がかった調子で唄っている。
畳の上に並べられた長テーブルの上には、ビールに焼酎、日本酒といった飲み物や、刺身や唐揚げなどのつまみ類が所狭しと置かれ、総勢50名程も集まった人たちの誰もが、機嫌良く飲んだり食べたりと、これはもうどう見たって宴会ど真ん中という感じである。
テーブルのあちらこちらでは、「次の大関はあの力士だ」とか「あの大関はダメだ。精神的に弱過ぎる」とか「あの横綱の相撲はとても横綱相撲とは言えない」といった思い思いの相撲談議に花が咲いている。中にはすでに酔っ払って正体を失くし、畳の上で大の字に寝転がっている輩までいて、こうなるともう宴会ど真ん中どころではなく、宴もたけなわ、といった風情すら漂ってくる。
祝賀会などというのは単なる口実、この催しはただ単に大相撲ファン同士の集いだったのだと、千大王は理解した。
「おう、千大王、こっちだこっちだ」
と、離れたテーブルから手招きしてきた人物の顔を見て、千大王は人知れずため息を吐いた。
丑窪寅蔵は千両大学時代の一つ上の先輩だが、千大王にはパワハラ紛いのしごきを受けたという、嫌な思い出しか残っていない。
「先輩、今日は来てくれて有難うございます」と、心にもない礼を言って頭を下げた千大王に対し、
「おう、可愛い後輩のためだ。当たり前よ」と丑窪は、十両昇進おめでとうの一言もないどころか、「お前が十両になれたのも、大学時代に俺たち上級生が鍛えてやったお陰だ。それを忘れるなよ」などと、恩着せがましいことこの上ない。
千大王はまだビール一杯しか飲んでないというのに、早くも次の飲み物へと移行した丑窪は、美味そうに酎ハイをカパカパ飲みながら、好物の唐揚げを遠慮なく平らげていく。
「それじゃあ先輩、ゆっくりしていって下さい」無性に腹が立った千大王は、長居は無用とばかりにさっさと立ち上がろうとした。
「おいおい、もう行っちゃうのかよ。もっとゆっくりしていけよ」
「はっはっはっ、先輩」
「な、何だよ……」見下した感じで千大王が微笑むと、丑窪は一瞬怯んだ様子を見せたが、構わずにこう言った。
「関取になると、いろいろやることが有るもんで」
暇人のあなたとは違うんですよ。言外にそんなニュアンスを漂わせながら丑窪と目を合わすと、余裕のある動作でゆっくりと立ち上がった。
「おいっ、ちょっと待て、ちょっと待てよ」
後ろも見ずに立ち去った千大王に、威勢の良い声が追いかけてきた。しかしこの丑窪寅蔵という男、その大仰で時代がかった名前と、180センチを超えるがっしりした体躯にエラの張ったゴツい顔が載っているので誰もが騙されるが、相撲の試合では一度も勝つ場面を見たことがなく、実は人一倍気が弱いことを千大王は知っていて、それ以上は何も出来ないことが分かっていた。
だが千大王が他のテーブルに腰を下ろし、ようやく落ち着いて飲み食いを始めたところで増田男がやって来た。
「すいません、向こうの会場の人たちが千大王さんのことを呼んでいます」
「ああ、そう。それじゃあ、戻ろうか」まあ本来は、久須村の人たちとの祝賀会なので、いつ戻ろうかとやきもきしてた千大王である。渡りに船とばかりに立ち上がった。
「いや、こっちの会場は、俺が残りますんで」
「ああ、そう。悪いね」そう言うと千大王は、皆の前で簡単な挨拶をしてから第二会場を後にした。
時計に目をやると、既に午後8時を過ぎている。まだまともに飲み食いしていない千大王は、このままだと食いっぱぐれる恐れもあるぞと焦り、自然と駆け足になったので、再び酔いが回り、息が切れた。
ちゃんこ料理屋に着くと息を整え、「本日は私、千大王のために――」と、先ほど考えた挨拶の言葉を思い出しながら頭の中で反芻し、暖簾を潜った。
奥の座敷では一人の男がマイクを片手に、美川憲一の『さそり座の女』をものまねでもするように唄っている。
「おう、千大王、ご苦労だった」友沼親方に手招きされて隣に腰を下ろすと、目の前には美味しそうな匂いを放ちながら、ちゃんこ鍋がぐつぐつと良い具合に煮えている。
挨拶がてら、一通り周りの人たちにビールを注いで回った千大王は、早速ちゃんこ鍋に手を付けた。
「美味いっ!」ようやく有り付けた料理に、嬉しさも一入だ。
「ところで千大王さん、向こうの様子はどうでしたか?」と、テーブルの向かいに座る村長の山田が訊いてきた。
「大丈夫です。皆、楽しそうでしたよ」(あの丑窪寅蔵以外は――)とこれは、心の中だけで付け加え、「それにしてもよくあんな短時間で、あれだけの準備ができましたね」と続けた。
「ま、こんな小さな村だから、村長とは名ばかりで、小間使いみたいなことは慣れているんだよ」と山田は笑い飛ばした。
「いやいや、やっぱり山ちゃんは、日本一の村長だよ」酒に酔った友沼親方も、普段とは違う陽気な声で会話に加わった。
「いやいや、そういう友ちゃんこそ、日本一の親方で」
「いやいや、そちらこそ」
「いやいや、なんのなんの」
「いやいや、どーもどーも」
長身の友沼親方を前にすると、小柄で童顔の山田は子供のように見えるが、ペコペコとお辞儀をしながら二人が掛け合いをする様子はまるで、古くからの友人のようだ。
その時、千大王が腰に下げた信玄袋から、スマホの着信音が聞こえてきた。第二会場にいる増田男からだ。
「大変ですっ!何だか物凄いガタイの人が、千大王さんの名前を連呼しながら急に暴れ出しましたっ!」
切迫した声で話す増田男の後ろからは、「うぉー!」という丑窪寅蔵の気の触れたような声が聞こえてきた。