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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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平和と土佐武蔵の名古屋場所 その3

 千秋楽の土俵に上った土佐武蔵は、無意識のうちに古傷のある右肘へと目をやっていた。

 無駄な心配はさせまいと隠してきたつもりであったが、土佐武蔵が右肘を痛めていることを、付け人でもある平和は気付いていた。そのこともあって前夜、平和は自らの体調の悪さも顧みずに食事の後片付けを代わると申し出て、土佐武蔵もそれに甘えてしまうという失態を犯してしまった。

 その結果、六戦全勝で迎えた千秋楽の朝、平和は高熱を出して寝込み、序二段優勝のチャンスを棒に振るという最悪の結果を招いてしまった。

「くっ……」

 とにかく今は、自分のことだけを考えろ。

 土佐武蔵はペシペシと自らの頬を両手で思いっきり引っ叩いて、取組に集中しようとした。しかし脳裏に浮かぶのは、そんな恨み辛みなど微塵も感じさせない表情で土佐武蔵のことを送り出す、熱に浮かされながらも土佐武蔵の勝利を祈念する、平和の平和たる顔であった。

「今日は、勝ってくださいね」

 土佐武蔵は十四日目まで七勝七敗の五分の成績で、この一番に勝ち越しが掛かっている。それがどれだけ重要なことであるかが、付け人の平和には痛いほど分かっていたのである。

 この場所の土佐武蔵は東十両八枚目で、この辺りの番付では将来を嘱望される若くて勢いのある力士たちが、次々と現れては消えていった。そう、彼らにとって十両の中ほどとは、幕内へ昇進するための単なる通過点に過ぎない、そんな番付なのである。そのため、特に土佐武蔵のような中堅からベテランに差し掛かった力士においては、この地位で大勝ちするのはとても難しく、コツコツと地道に白星を積み重ねてその地位を上げていくしかない。だが、急峻な崖を必死に登り詰め、漸く山頂が見えたと思ったら痛めていた古傷が再発し、一気に崖下へと転落、なんてことは容易に起こり得る話でもあるのだ。

 この日の対戦相手、唐紅部屋の大紫とは過去に一度だけ、土佐武蔵がまだ襁褓山の四股名で出場していた幕下時代に手合わせをしたことがあった。

 当時、付け人への暴力問題が発覚して出場停止となり、幕下へ降格処分となっていた大紫は、稽古が不十分だったこともあり土佐武蔵に敗れて負け越しとなった。場所後には一旦、引退も表明したのである。しかし五歳年上の兄、群青の涙ながらの説得で大紫は引退を思い留まったという経緯がある。

 それから半年余り、復活を遂げて十両に昇進した大紫はこの場所、ここまで九勝五敗の好成績を残している。兄の群青と弟の大紫は元々、青紫兄弟と呼ばれて人気も高く、世間から大きな注目を集めていた。殊に"天才肌の弟"である大紫は周囲の期待も大きく、兄弟揃って幕内力士となることが確実視されていた。

 その兄の群青は、先の夏場所からめでたく幕内昇進を果たし、この場所も幕内で相撲を取っている。しかし"努力の人"である群青が幕内を維持し続けるのは並大抵のことではなく、いつ陥落してもおかしくはない。そして年齢のことを考えれば、陥落した群青が再び幕内へと昇進するのは至難の(わざ)だと言わざるを得ない。

 兄の群青が幕内でいられるうちに、早く自分も幕内へと昇進を果たさねばならない。そういった切実な事情が、大紫にもあるのだった。

 時間前最後の仕切りで目を見合わせた土佐武蔵は、まだやんちゃさを残していた前回の対戦とは違い、大紫も本物の力士の目になったと、そう感じた。こいつは手強いと。

 そして立合い、土佐武蔵の強烈な突き押しに後退しながらも、土俵際、まさに蝶のような捉えどころのない柔軟さで(こら)えた大紫は、横へ横へと回り込んでいく。その表情にはまだ、若干の余裕さえ感じられた。

 大紫としては、土佐武蔵の隙を突いて懐に潜り込みたいところであるが、前回の対戦ではそこで土佐武蔵の強烈な吊り技を食らった苦い記憶が脳裏にこびり付いている。迂闊に飛び込むのは危険だと、生物としての本能がそう告げていた。

 両者の攻防は激しさを増し、相撲が少し長くなってきたと思ったその時、伸びてくる土佐武蔵の右の肘を大紫の左手が捉えて横へと跳ね上げた。

 よし、ここだっ!

 すかさず懐に飛び込んだ大紫は左の前褌を取り勢いよくダッシュする。なす術もなく後退した土佐武蔵の両足が俵にかかり、上体は大きくのけ反った。しかし土佐武蔵の上半身の反りは大紫の予想を越え、想定以上に前がかりとなった大紫の廻しに土佐武蔵の左手が掛かる。

 ここです、武蔵さんっ!

 土佐武蔵の耳には、テレビの前で声援を送る平和の声が届いた気がした。

 両膝を大きく後ろへ曲げた土佐武蔵は、今度はしっかりと右手で大紫の廻しを掴み、懸命に上体を横へと反らす。体格が土佐武蔵より一回り以上小さな大紫の両足の先は土俵から浮き上がり、バランスを崩しながら土俵の外へと飛んでいく。それと同時に堪えきれなくなった土佐武蔵の両膝も跳ね上がり、左の腰から俵の外側へと落ちていった。

 攻めた大紫と堪えた土佐武蔵。最後の土佐武蔵のうっちゃりも、華麗に決めたそんなスマートなものではなく、自爆覚悟の泥臭いもの。際どい勝負は行司の軍配に委ねられた。

 サッと軍配は東方に上がり、土佐武蔵の勝利が確定した。それを見て苦々しい表情の大紫へと、土俵の上から土佐武蔵の右手が伸びる。

 瞬間、ハッとした表情になった大紫の顔が柔らかくなり、土佐武蔵の手を掴む。攻防のある一番に、館内からは十両らしからぬ割れんばかりの歓声が巻き起こった。


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