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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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平和と土佐武蔵の名古屋場所 その1

「ああ、武蔵さん。僕、代わりますよ」

 夕食の後片付けをするために土佐武蔵が台所に立つと、すかさず平和が声を掛けた。まるでそうすることが当然というような、申し訳なさそうな顔で。

「今日は俺の当番の日だ。気にしないでお前は休んでいろ」

 振り向きもせず、後ろ姿のままで土佐武蔵はそう言う。

「だ、だって武蔵さん、明日は大事な千秋楽じゃないですか」

「ばか野郎。それを言うならお前の方こそ、明日は一世一代の大事な一番だろうが」

 そう言いながら、あえて土佐武蔵は険しい顔を平和に向ける。

「一世一代? いやいや、まだ序二段の僕なんかが、そんな大袈裟な……」

 顔の前で手を振りながら平和は言葉を濁す。しかしこの名古屋場所の平和の活躍にはまさに覚醒したとでもいった感があった。

 入門から二年余り、これまで目立った活躍のない平和であったが、この場所は千秋楽まで六戦全勝という大躍進ぶりを見せていた。一世一代と土佐武蔵が言うのも(あなが)ち誇張ではなく、明日の勝敗如何によっては序二段優勝もあり得るのだ。だが何事においても控え目な平和は、優勝が目前に迫ったこの期に及んでも、何がなんでも勝ってやろうという気負いや色気、緊張感のようなものとは無縁の雰囲気を漂わせている。そう、まるで当事者とは思えないような。

 逆に平和は、土佐武蔵に向けてこう言った。

「武蔵さんこそ、明日は勝ち越しのかかった大事な一番じゃないですか」

 東十両八枚目の土佐武蔵は十四日目まで七勝七敗の五分の成績で、千秋楽の土俵は勝ち越しのかかる大事な一番なのであった。自分のことを差し置いて平和が言うのももっともで、十両以上の関取と幕下以下の力士では、その一番に対する重みは大きく違ってくる。その意味でも十両の八枚目というのは微妙な番付で、勝ち越しか負け越しか、即ち、ここから前進するのと後退するのとでは、それこそ天と地ほどの違いがある。そのことを思うと土佐武蔵は、キリキリとストレスで胸の奥がやられそうになるのであった。

「しかし平和よ、お前だってこの先、いつこんな優勝のチャンスが巡ってくるかは分からんのだ。ここで頑張らなければ、この先ずっと後悔することになるかも知れんぞ」

「だって僕は、序二段の力士である前に、関取の土佐武蔵さんの付け人なんです。僕の優勝なんかより、武蔵さんが勝ち越してくれた方が、何倍も嬉しいです」

「まあ、そう言ってくれるのは嬉しいが……」

「大体、千秋楽の前の日に関取にちゃんこの片付けをさせるなんていうのが、この友沼部屋は少しおかしいんです」

「いや、お前、それは違うぞ」

 少しむきになりかけた平和を、今度は土佐武蔵が諫める。

「相撲部屋は一つ屋根の下に暮らす家族だ。雑事を全て下の者にやらせるなんていうのは家族のすることじゃない。まあ関取になるとそれなりに色々と忙しくなるから全てを当番制で等分に割り振ることは難しいが、それでもやれる範囲で協力する。他の部屋はどうだか知らんが、この友沼部屋はそういう考えだ。お前もそれは分かっているだろう」

「それはそうですが……。でも、よりによって千秋楽の前日の夜になんて。しかも武蔵さん、また古傷の右肘を痛めてますよね」

 分かっていたか、というように土佐武蔵は思わず痛めている右肘に手を触れた。

 たかが夕飯の後片付けとはいうものの、お相撲さんが十人も集まれば、それは小学校や中学校の一クラス程の分量を優に越える。山と積まれた食器やグラスは、とても一人で捌き切れるものではないのである。

 その時、もう一人の当番である増田男が遅れてやって来た。遅れて来たことなどまるで意に介さない呑気な男は、売れないコメディアンのような惚けた声を上げた。

「あれ? 平和君が手伝ってくれるの? それじゃあ俺は、お言葉に甘えて先に休ませて貰おうかな」

「おい、待てコラ!」

 素早く後ろを振り向いて立ち去ろうとする増田男の浴衣の襟を、土佐武蔵がムンズと掴む。

「この平和はな、明日は優勝の掛かった大事な一番があるんだ。それにも拘らず、俺のために当番を代わろうと言ってくれてんだ。それを何だお前は。この場所は三勝四敗か、また負け越しで終わってんじゃねえか。どうせ明日は暇なんだから、お前が一人で全部やってくれたって、一向に構わないんだぞ」

「そ、そんなぁ……」

 きつく襟を掴まれた状態では、さすがの増田男もか細い声を上げることしかできない。

「それが嫌なら平和の気が変わらないうちに、お前もとっとと、片付けを始めろ」

「えっ? それじゃあ武蔵さん――」

「ああ、平和よ。悪いが今夜は、俺の当番を代わってくれ。その代わりに次のお前の当番の日は、俺が代わってやるからな」

「はい。それじゃあ、そうして下さい」

「あれっ、お前?」

 土佐武蔵は掴んでいた増田男の襟をポイッとゴミ箱へでも投げ捨てるように放すと、平和の顔を覗き込んだ。

「何だか顔色が赤いぞ。熱があるんじゃないのか?」

「えっ、いや、そんなことは――」

「それに声だって少し掠れている。お前、風邪を引いたんじゃないか?」

「いやいや、まだ僕は体力がないから、本場所の終わりの方になると、疲れが溜まってくるだけです」

「やっぱり片付けは俺がやる。いいからお前は、早く休んでいろ」

「だ、だめですってぇ。それに、早く眠ろうとしても取組のことをあれこれ考えると眠れなくなっちゃって。何かやることがあった方が、気が紛れて良いんです」

「そ、そうか。そこまで言うのならしょうがないが……」

 そう言うと土佐武蔵は増田男に鬼のような顔を向け「いいか、この平和は明日、優勝の掛かった大事な一番を控えているんだ。何か変調をきたしたら、すぐに報告しろ」と強く言い残してその場を去って行った。


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