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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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千大王対白城 その2

 名古屋場所九日目結びの一番、舞台となる愛知県体育館は最後の立合いの瞬間、それまでの喧騒が嘘のような静けさに包まれた。

 誰もが息を飲んで見守るなか、横綱の白城はその緊張をまるで楽しむかの如く、勿体をつけるようにして対戦相手の千大王を見据えながらゆっくりと右手を土俵に下ろしていく。

 三十センチ……二十センチ……十センチ……五センチ……そして最後は勢いよく砂を払うようにして白城の右手が土俵に下りた。それと同時に千大王も左足を半歩前へと進め、行司からは「ハッキヨイ!」の掛け声が上がり、立合いは成立した。しかし――。

 重心を低くして前に出る千大王の視線の先には白城の下半身がある。だが、電光石火の如く突進してくると思われた白城の両足は白線の内側に留まったまま、動き出す気配がない。なんと、立合いの瞬間に土俵に下りた白城の両手は、そのままバンザイでもするように上へと掲げられたのである。

 ハッ! 叩き込みだっ!

 誰もが想像もしえなかった横綱の意表を突く動きに、それでもいち早く危険を察知した千大王は両足に渾身の力を込めると、素早く急ブレーキを掛けた。その千大王の眼前を一陣の風が吹き下りていく。白城の両手が鼻先を掠めながら滑り落ちていったのだ。そう、意表を突いた白城の叩き込みは、千大王の素早い対応の前に不発に終わったのである。そして叩き込みを回避したこの瞬間こそ、千大王にとっては千載一遇のチャンスに他ならなかった。

 今だっ!

 勢い込んだ千大王が、再び前へと突進する。

 ガシッ!

 だが前に出たはずの千大王の身体が、逆に上へと伸び上がる。その瞬間、空振りしたはずの白城の両手が、どういう訳だか千大王の両前褌をもの凄い力で握り締めていたのだ。

 千大王の身体は強烈なカウンターパンチを喰らったボクサーのようにガクンと後方へと傾いて重心を失い、そのまま横綱の出足の前になす術もなく、足をヨロヨロともつれさせながら土俵の外へと押し倒されていた。

 その間、二・三秒。友沼親方が最低限の目標に掲げた五秒にも遠く及ばない、あっという間の敗北だった。

 一体、自分の身に何が起きたのか?

 頭を土俵に強く打ち突けてクラクラと目眩を起こした千大王であったが、自分が負けたことだけは瞬時に理解し、背中の汗にビッショリと土俵の砂を貼り付けたまま苦労して立ち上がると、仕切り線へと戻って頭を下げた。頭を上げたその時、勝ち名乗りを受けている横綱白城と目が合った。土俵上では常にポーカーフェイスのはずの白城の右の口角が、テレビ画面には映らぬ程の僅かな角度で持ち上がったのである。それは横綱白城の、千大王だけに向けられた冷笑に違いなかった。

 まるで嘲笑うかのような横綱の冷笑を見たその刹那、千大王は自分の身に何が起きたのか、全てを理解した。


 今を遡ること二カ月前の五月。夏場所の千秋楽で、千大王は元大関の菊卍と対戦した。

 三賞受賞のかかったこの一番、菊卍の怒濤の攻撃を受けた千大王は守戦一方の苦しい戦いを強いられた。しかし土俵際で菊卍の両前褌を掴むと、そこから形勢は逆転し、見事千大王は勝利をものにした。その一番において、逆転のきっかけとなったのが千大王が苦しい体勢から放った叩き込みなのであった。

 千大王の放ったこの捨て身のような叩き込みは、菊卍の鼻先を滑り落ち空振りに終わったものの、しかしこの空振りした両手が偶々(たまたま)菊卍の前褌にかかり、形勢は逆転したのである。

 そう、この叩き込みから両前褌を取る一連の流れは、狙ったものではなく、あくまで偶然そうなったように千大王は見せかけた。見せかけた積もりであった。しかしそれを土俵下から間近に見ていた横綱の白城は、千大王がそれを故意に狙ったものだと見抜いていたのだ。

 この一番に勝利し技能賞も獲得した千大王は、この技を"千大王スペシャル"などという名前で呼んで増田男と盛り上がり、オタクとも呼べるレベルの様々な相撲の蘊蓄(うんちく)をひけらかした。技能賞を獲得したこともあり、自分には何か力士としての特別な才能があるのではないかと、そんな勘違いまで得意になっていた。冗談を言いながら増田男と笑い合っていたあの日の能天気な自分を思い返していた。


 情けない取り口で白城に負けた千大王は、思い上がった自分の鼻先をぺしゃんこにへし折られたような、そんな惨めな思いに駆られながら力なく花道を下がって行く。まるで何でもない事のように立合いで白城が放ったその技こそ、千大王が苦労して手に入れた"千大王スペシャル"に他ならなかったのである。

 あんなものを必殺技などと呼んで増田男と盛り上がった己れの幼稚さ、稚拙さが背中に重くのし掛かる。最後に見せた横綱のあの冷笑。あれは「こんなものは必殺技でも何でもない。誰でも簡単に真似の出来る、幼稚な技だ」と、無言で千大王を嘲笑っていた。

 自分が長いこと練習を積み重ねて築き上げた技を簡単に真似されたことも勿論ショックではあるが、それ以上に自分の思い上がりを見透かされたことが恥ずかしく感じた。

 そしてこの一番を境にこの場所の千大王は調子を落とし、黒星を積み重ねていく。終わってみれば六勝九敗の負け越しでこの名古屋場所を終えていたのである。

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