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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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小料理 安貞 ~イヨマンテの夜~

「良い人と結婚? うちが?」

 いきなり将威から言われた貞子は、反射的にそう問い返していた。

 この夜の将威には些か酒に酔い潰れた感が漂っていて、いつにも増して口が軽くなっている。〈小料理 安貞〉ではこの時、川中美幸の『遣らずの雨』が流れていて、曲中で唄われる女の物悲しさとの鮮明過ぎる対比に、つい将威は、貞子のプライベートにまで口を差し挟んでしまったのだった。

「ダッテ女将サンハ、昔ッカラ武蔵サンノ事、大好キデスモンネー」

「えっ、いや、まぁ……。それはそうだけど……」

 滅多に自分の気持ちを押し出すことのない貞子だが、こうして一緒に所帯を持ったからには認めずにはいられない。照れて俯きながらも、呟くように貞子はそう言った。

「好キ好キ好キーナ人ト一緒ニナレルナンテ、コンナ幸セナ事ハナイジャ、ア~リマセンカ」

 何故にこの男は、あんな昔のチャーリー浜のギャグを知っているのかと疑問に思いつつも、やはり今夜の将威はちょっと呑み過ぎだ、早く部屋へ帰そうと、口を開きかけた貞子の機先を制し、将威は尚も続ける。

「ダッテ、関取ニナッタオ相撲サンテ、皆サン、ト~ッテモ、モテモテナンデスヨ~」

「まあ、そうなんでしょうね」

 機先を制された貞子には、軽く相槌を打つという選択肢しか残されてはいなかった。

「偉クナッタオ相撲サンノ奥サンテ、モデルサンヤ有名女優サンミタイナ、綺麗ナ人バーッカリ。ソンナノズルイジャ、ア~リマセンカ」

 そこで大きく顔を上げ、目の前にいる貞子と思いっきり目を鉢合わせた将威の顔がハッとなる。これから自分がしようとする話の矛先は、どうしたって貞子の美醜に関する是非へと、話が繋がってしまうことに思い至ったのだ。

「イ、イヤ、モチロン女将サンダッテ、トーッテモ、オ綺麗デスヨ」

 取りなすように顔の前で大袈裟に手を横に振る将威だが、既に手遅れだ。

「別にいいのよ。うちが不細工だってことぐらい、自分が一番よく分かっているもの」

 少し不貞腐れたように言う貞子の顔は下膨れ気味で、そのことが貞子に対し、実際の体重よりも太っている印象を与えていた。それは本人が一番に分かっている。しかし自嘲気味に本人が言うほど貞子は決して不細工でも不美人でもなく、化粧っ気のない顔と地味な性格のせいでそう思われることが多いだけで、「オ綺麗デスヨ」という将威の言葉も(あなが)ち、社交辞令という訳ではなかった。

 この日の貞子は薄いピンクを基調とした楊柳(ようりゅう)仕立ての可愛らしい小紋のついた着物に身を包んでいる。友沼部屋の女将である景子婦人から貰い受けたものだ。

 角界でも美人女将として有名なその人の着物に自分のような者が袖を通すなんてと、当初は気後れした貞子だったが、何度も着ているうちに着物は肌に馴染み、自然と着こなせるようになっていた。そう、貞子は決して、本人が思っているほど気後れするような不美人ではないのである。

「でも本当に、どうして武蔵さんはうちみたいな女と結婚なんかする気になったのかしら?」

 しかしひと度"自虐モード"に陥った貞子は、まるで独り言でも呟くように続けてそう口にした。

「ア、ソレ、拙者ハナントナク、分カルヨーナ気ガスルデ御座ルノ事ヨ」

「うそ? あなた、分かるの?」

 自分の中に棲み着いた長年のコンプレックスから抜け出したい貞子は、その将威のひと言に救いを求めるように、カウンターから少し身を乗り出した。

「武蔵サンハ友沼部屋ノ中デハ、平和クント、ト~ッテモ仲ガヨロシイデス」

「あ、平和君ね。そうそう、あの子、とってもいい子よね~」

 平和の名前が飛び出し、貞子の顔が柔らかくなる。

 一度、土佐武蔵は平和を連れて〈小料理 安貞〉に呑みに来たことがあったのだ。

 その日、本場所の取組で連敗を喫した土佐武蔵は、苦しい胸の内を珍しく酒の力を借りて吐き出した。酔い潰れるまで繰り返される土佐武蔵のしつこい愚痴を隣に座ったまだ未成年の平和は、自らはウーロン茶だけで「うんうん」と辛抱強くいつまでも相槌を打ち続けた。

 武蔵が貞子に強く(たしな)められ、席を立った時には既に夜中の十二時を回っていた。平和は歩くこともままならない土佐武蔵の大きな身体を、背中におぶって友沼部屋へと連れて帰っていったのである。

 その日から平和は、貞子のお気に入りリストのトップに君臨している。

「平和クント女将サンハ、ドコカ似タトコロ、アリマスネェ」

「ええっ、うちと平和君が似てるって? 何で? どういう風に?」

「ソレハ、エート……」

 将威は勿論、見た目的なことを言っている訳ではなく、しかし女将のことをよく知っている訳でもないので、どうしてそう感じるのか、自分でもよく分からない様子で目を上に向けた。そしてそのあまりにも個性の強い独特の日本語を駆使して、苦労しながら言葉を捻出した。

「何トナクデスケド、平和クンモ女将サンモ、自分ノ事ヨリ他人ノ事ヲ優先スル人種……オ侍サン? ソウ、侍スピリッツ! 世ノ為人ノ為、自分ヲ犠牲ニスルコトヲ(いと)ワナイ、"天晴レ(あっぱれ)"ナ日本人デハナイカト、拙者ハ感ジルノデ御座ルヨ。其レ故(それゆえ)、正義感ノ塊ノヨウナ土佐武蔵サンハ、ソンナ二人ニドウシヨウモナク惹カレ、放ッテオク事ガ出来ナイノダト、小生(しょうせい)ハソー感ジルノデ御座ッタ」

 将威が生まれ育ったケニアのナイロビでは、そんな簡単に自己犠牲が出来るタイプの人間には、会ったこともない。しかし故郷から遠く離れたこの"侍の国"ニッポンでは、そういうタイプの人種が一定数存在するのだと、日本にやって来た将威は、そう感じるようになっていたのである。

「あんた、よく分かってるじゃないか」

 ちょうどその時流れ始めた、こんな小料理屋には些か不釣り合いな『イヨマンテの夜』に乗りながら、厨房の奥で休んでいた貞子の母である治子が顔を出した。

「確かにこの貞子には、そういうところがある。あんた、訳の分かんない外人さんだと思っていたけど、人のこと、よく分かってるじゃないの」

「ちょっとお母さん――」

 控え目で大人しい性格の貞子とは反対に、押しが強い海の女たる治子は、貞子の言葉を遮り尚も続ける。

「ほら、あれはあんたが中学三年の時」治子はそう言うと、まるで慰めるように娘の肩に手を置いた。

「その日は貞子が所属していた卓球部の最後の公式戦の日で、この子も団体戦に出場することになっていたんだよ。とっても楽しみにしていてね。だけどね、人数の都合で三年の女子で一人だけ、試合に出られない子がいたのさ。それがこの子の一番の親友だった(あや)ちゃんでね。貞子はその日の朝、自転車で転んで脱臼したなんて嘘吐いてさ。代わりに彩ちゃんに試合に出てもらったんだよ」

「卓球シテ、脱臼ノ試合ニ出ラレナクナッタト」

「逆だよ、逆」

「お母さん、何もあんな昔のことを――」

「高校生の時だってそうだろう」

「えっ、高校生の時? うち、何かあったかしら?」

「あんた、ほら、同じ学年の誰かから、武蔵さんに渡してくれって、恋文を預かったことがあるだろう」

「ああ、そう言えばそんなこと……あったわねぇ」

「コイブミ……? 純一郎サンデ御座ルカ?」

「アホかい。日本の総理大臣を武蔵さんに渡してくれって、なんのこっちゃ」

 古き良き昭和の香りを色濃く残す治子となんちゃってマサイ族の頓珍漢将威では会話がいちいちねじれの位置に飛んでしまい、修正するのは必然、貞子の役目となる。

「ふふっ。恋文っていうのはラブレターのことよ」

「嗚呼、付ケ文(つけぶみ)ノ事デ御座ッタカ」

「そっちの方が分からんわ」

「ソレデ、(くだん)ノラブレターハドウナッタデ御座ルカ?」

「ああ、この子だって武蔵さんのこと好きだったくせに、バカ正直に渡したりしちゃうからさ、暫くその子と武蔵さん、付き合うことになったのさ。ほんと、お人好しだよねぇ」

「あれは、だって……しょうがないじゃない」

「私だったらねぇ、『嫌よ、武蔵さんっ! あんな子と付き合わないで、うちと付き合って!』って言って、強引にブチューとやっちゃうよ」

「ブチュウ?」

「ああ、キッスするんだよ」

「キッス?」

「ああ、年頃の男と女がだねぇ、こうやって肩を抱き寄せながら――」と治子は、貞子の肩に置いた手に力を込める。

 いみじくもその時、ベルカント唱法による伊藤久男の豊かな声量の「イヨマンテェ~」は最高潮に達し、魂を揺さぶられた治子の長い間封印されていた女の本能が目覚めた。そしてその腕にいっそうの力を込めて貞子を渾身の力で抱き寄せると、「唇と唇を重ね合わせてだねぇ……」と、生まれ育った土佐の荒波の如く皺の寄ったその口元をすぼめ、それはまるでダイソンの掃除機もかくやという吸引力で覆い被さるように貞子に迫りゆく。

「や、止めて母さん!」

 将威に乗せられ、危うく大人の際どいラブシーンを事もあろうに実の娘と演じそうになった治子の顔がハッとなり、すんでのところで正気を取り戻した。

「嗚呼、接吻(せっぷん)ノ事デ御座ッタカ」

「アンタ、分かってて言ってるね。全く、何て外人さんだ」

「あの時はうちだって嫌だったけど、頼まれたんだからしょうがないでしょ」

「でもあたしゃ知ってるよ。初めて武蔵さんがその子とデートすることになった日、あんたは布団被ってその中でシクシク泣いていたのをさ。まあ、それでもこの子はいいよ。ただの一般人だし、こうして武蔵さんと一緒になることも出来たんだから。だけどプロスポーツの世界に身を置く平和君が同じ様な性格だっていうのはちょいと引っ掛かるねぇ。人を押し退けて出世していかなきゃならない世界だってのに、そういう性格が仇にならなきゃいいけどねぇ……」

 年配者である治子の言葉はどこか達観していて妙に説得力がある。平和は今や貞子の一番の推しメンであり、その平和の行く末に暗い影を落とす治子の最後の言葉は、喉の奥に残った魚の小骨のように、いつまでも貞子の心に鬱々と居座り続けることとなったのである。

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