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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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増田男の腋臭

 腐った玉葱のような臭いで目が覚めた。

 ツンと鼻に突く刺激臭にくらくらと目眩がした千大王(せんだいおう)は、慌ててその臭いから逃れようと顔を背け、上体を起こした。隣には増田男(ますだお)がまるでバンザイでもするような格好で寝ている。増田男は腰に浴衣をだらしなく巻き付けただけというあられもない姿で、スヤスヤと静かな寝息を立てている。去年高校を卒業したばかりで、その貧相な寝姿はまだ相撲取りというには頼りない、一昔前の貧乏学生のようだ。

 増田男の腋の下からは玉のような汗が吹き出している。激しい稽古で擦れた腋の下には、まるで鹿に食い荒らされた後のはげ山のように、生き残った何本かの腋毛がチロチロと(わび)し気に伸びているだけである。そしてどうやらこの増田男の腋の下に存在するアポクリン汗腺から分泌される汗と皮脂腺から分泌される皮脂とが混ざり合い、それらが常在細菌のエサとなって分解、代謝されることで、この男の腋の下から鼻ももげようかという腐った玉葱臭を、今この瞬間にもせっせせっせと排出していることは紛れもない事実のようだ。

 そんな腐った玉葱臭溢れるグラウンドゼロ地帯に己れは、迂闊にも自ら鼻先を突っ込み夜を明かすという大失態をやらかした。しかし、いくらこのような不幸な現実を嘆き呪ってみたところで、昨晩行われた宴会による二日酔いも相まって、このくらくらする目眩と吐き気は当分治まりそうもない。

 増田男の向こうには日の出山(ひのでやま)が転がっている。不幸なことに彼も自分と同じように、思い出すだに恐ろしい、あの腐った玉葱臭が続々と排出されつつある増田男の剥き出しの腋の下に寝返りをうち、「うーん、うーん」と苦しそうな呻き声を上げ、顔を(しか)めている。

 徐々に頭も働き出し、気が付けばいつもの大部屋だった。部屋には他にも四人の力士がいるが、誰もが布団も敷かずに畳の上に転がり大(いびき)をかいている。

 窓からは朝日が射し込み、通常であればもうとっくに朝稽古をしている時刻だが、今日だけは特別に免除されたようだ。

 痒みを感じて額に手をやると、何かシルク地のようなものが頭に巻き付いている。外してみるとそれは、友沼親方が「英国製だぞ」と自慢していたネイビーにペイズリー柄のネクタイだった。

 何でこんなものが自分の頭に――。

 と青ざめた千大王だが、目の前に掲げたネクタイをつくづく眺めるうちに、途切れ途切れの昨晩の記憶が少しずつ(よみがえ)ってきた。


 昨日の一番に勝ち、千大王の十両昇進が確定的になると、急遽久須(くず)村の人たちと祝賀会を開くことになった。もっともこの祝賀会は、千秋楽に後援会の人たちを招いてホテルで開催する豪華パーティーのようなものではなく、まだ本場所中であることも考慮して、それはごくうちうちの(ささ)やかなものとなる筈であった。

 ところが夕方になると、どこで噂を聞き付けたのか、都会から大勢のファンが大挙して押し寄せた。

「うひゃあ!」

 久須駅前の広場は見たこともない人混みでごった返し、それを見た村長の山田総一郎は思わず悲鳴を上げていた。

 山田は、会場となるちゃんこ料理屋を貸し切りにした位ではとても捌ききれぬ人数だと見てとると、急遽村の公民館を第二会場とすることに決めた。すぐに酒や料理を手配し、カラオケの機材等も持ち込んで宴会の出来る体裁を整えた。

 もっとも、元々村興しをする積もりで友沼部屋を招いた山田としては、このような事態は嬉しい誤算でもある訳で、「忙しい忙しい」と言いながらも、嬉々として手際良く、全ての準備をやり終えていた。まさに獅子奮迅の働きだった。

「うひゃあ!」

 午後七時になり、祝賀会が行われるちゃんこ料理屋に向かった友沼部屋の一同は、駅前広場がとんでもないことになっていることを知り、悲鳴を上げた。

「あーっ、千大王だー!」

「おーっ、友沼親方もいるぞっ!」

「千大王、十両昇進おめでとー!」

 あっという間にファンに囲まれ、即興の握手会、サイン会となり、もみくちゃにされた。訳が分からぬままサインをねだられた増田男などは、パニックのあまり、本名の『増田和男』をそのまま書く始末だった。

 しばらくすると村長の山田がやって来て、「ちゃんこ料理屋に入れない人たちは第二会場へ」と案内を始めた。その隙に友沼部屋の一同は、逃げるようにちゃんこ料理屋の暖簾(のれん)(くぐ)った。

「ふぅ~」

 祝賀会が始まり、ようやく乾杯のビールで一息ついた千大王だが、落ち着く間もなく第二会場である公民館から呼び出しがかかった。

「どうやら千両(せんりょう)大学の相撲部の先輩が来ているらしいぞ」と、友沼親方から耳打ちされた。

「はぁ……」と千大王は、思わずため息が出た。

 千両大学相撲部は全くの弱小チームであるにも関わらず、体裁だけは体育会系であることから、先輩後輩の上下関係だけはやたらめったら厳しかった。

 すぐに公民館へ向かうことにした千大王だが、そこは歩くと10分もかかる場所にあることを知り、タクシーを頼むことにした。

「すいません。タクシー会社は今夜、臨時休業だそうです」

「ええっ、何で?」店主に言われ、思わず訊き返すと、

「ドライバーは全員、今夜は祝賀会だそうです」と店主は、気の毒そうに奥の座敷を指差した。

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