千大王対菊卍 その2
念入りに土俵が掃き清められる間、国技館に束の間の静寂が訪れる。呼出によって次の取組が呼び上げられると、沸き起こる大歓声の中、拍子木の音を合図にまず東方の三人の力士が土俵に上がった。千秋楽恒例の、三役揃い踏みだ。
前に二人、後ろに一人の扇の形を象った三角形に並んだ三人が揃って柏手を打ち、右足二回、左足一回の四股を踏む。次の取組の菊卍のみが土俵に残り、後ろの二人は控えへと降りていく。
次いで、西方の力士三人が土俵へと上がる。こちらは前に一人、後ろに二人という東方とは扇を逆さにした三角形だ。三角形の頂点には西前頭十枚目の千大王が立ち、その後ろに大関の萩笑と横綱の白城が立つ。
扇の形を逆さにしたこの西方の陣形はまさに皮肉としか言いようがなく、取組の編成上、前頭の下位から抜擢された不慣れな者が三角形の頂点に立つという不自然な現象が、しばしば起こり得る。
な、何故に前頭十枚目の私がこんなことを……。
三角形の頂点に立つ千大王は、まるでそれが理不尽な仕打ちであるかのような戸惑いを覚えていた。
勿論、千大王にとって三役揃い踏みなどという大役は初めての経験となる。場所前はまさか自分が三役揃い踏みをすることになるなどとは夢にも思わなかった。否、それは、千秋楽の取組編成が行われる二日前の時点においてさえ、想像もしないことであった。あまつさえ、自分の背後には大相撲界の大物二人を従えているのである。その陣形の理不尽さにも気圧され、いやが上にも千大王の顔面は蒼白となり、このまま罅割れて瓦解してしまうのではないかという程に全身が強ばった。
私の立ち位置はここで良いのか? 手順は間違っていやしないか? 後ろの二人との呼吸は合っているのか?
様々な疑念が千大王の脳裏を渦巻くが、まさか後ろを振り向いてそれらの一つ一つを確認する訳にもいかず、まるで雲の上でも歩いているかのようなフワフワした感覚のまま、ギクシャクと手足を動かし続けた。
一連の儀式はまるで流れ作業の仕事のように千大王の身体に馴染まぬままアレヨアレヨと流れ去り、いつしか終わりを告げていた。ホッと一息吐いた千大王は気付くと白房下に腰を落とし、右手に塩を掴もうとしていた。その右の掌には、まるで取組を終えた直後のような大粒の汗がビッショリと浮き出ている。ハッと我に返った千大王が慌てて塩を摘まんで立ち上がると、向き直った東の土俵では元大関の菊卍が仁王立ちになっていた。
アンコ型のコロッとした体型のため勘違いされやすい菊卍ではあるが、その身長は百八十七センチと、実は相撲取りとしても十分に長身の部類に入るのだ。間近で対峙した千大王は元大関の、その筋肉という鎧を身に纏った威容に圧倒された。
――ハッ! いかんいかん。
すっかり雰囲気に飲まれそうになっていた千大王は、ピシャピシヤと己の頬を二度三度と強く叩き、土俵へと足を一歩踏み出した。
昭和から平成、そして平成から令和へと時代は移ろい行くが、大相撲界には依然として四十以上もの相撲部屋が存在する。所属する力士の数は総勢七百名を越え、親方衆や行司、呼出、床山等、全ての大相撲関係者を含めた数は千人にも上る。千秋楽の国技館へは、床山として付け人として、そして勿論相撲取りとして、それぞれがそれぞれの役割を果たすべく出向いて行く。
友沼部屋にはこの日、前日までに全ての取組を終え、それらのどの果たすべく役割もない増田男が一人残っていた。
「ひぃふぅみぃよぉ……じゅ、十枚!」
大部屋でかじり付くようにテレビの大相撲中継を観ていた増田男は、千大王の取組に多くの懸賞旗が土俵上をぐるぐると半時計回りに回るのを見て歓喜した。
「ということは、え~と……」
そして頭の中では素早く三賞の賞金との合計金額をはじき出し、ニンマリと嫌らしい笑みを口元に浮かべた。この日の朝、あれだけ千大王に冷たくあしらわれたというのに、未だに自分にも分け前が貰えるものだと信じて疑わないようである。
またその頃、久須村の公民館に用意された大画面テレビのスクリーンでも大相撲中継が映し出され、その前に集った大勢の村人たちが千大王に大声援を送っていた。もしもこの取組に勝つようなことがあればその瞬間、村では祝福の花火が打ち上げられる予定となっている。これだけのお祭り騒ぎは、千大王が十両に昇進したあの時以来である。
三役揃い踏みという大役から解放され、少し平静を取り戻しつつある千大王は、仕切りを繰り返しながら頭の中では部屋を出発する前に友沼親方から言われた言葉を思い出していた。
「残念ながら、今のお前ではあの絶好調の菊卍に勝つ可能性は、限りなくゼロに近いな」
「そ、それでは、私はどうすれば……?」
さすがに勝つ可能性がゼロだと言われては、千大王もショックを隠せない様子だ。
「お前、今日の相撲に勝ちたいか?」
「えっ? そ、それは勿論……」
まさか勝ちたいかと訊かれて否定する力士がいるはずもなく、一体親方は何を言い出すのかと訝しく感じた。
「そうだよな。しかし今のお前の実力では、まともに勝負にいったところで、勝てる見込みはないな」
「はぁ……、それは、そうかも知れないですが……」
まさか友沼親方まで増田男のように立合いで変化しろと言い出すのではないかと懸念し、溜め息混じりに言葉を吐き出した千大王は少し顔を顰めた。
「それでは千大王よ、お前は今日の取組で、仕切りの間、決して菊卍と目を合わせてはならん」
「目を、合わせない……?」
そうだと言うように、腕組みをした友沼親方は「ふむ」と大きく頷いた。
「そ、それから私は、どうすれば良いのでしょう?」
「どうする? ああ、後は特別に何をしなくても良い。ただいつものように、一所懸命、目の前の一番に集中するだけだ」
「はあ……」
何か戦術的なアドバイスを貰えるものだとばかり思っていた千大王は、立合いで目を合わすなと言われても、それが一体何なのか訳が分からず、拍子抜けする思いだった。
「まあ兎に角、あの菊卍の立合いの当たりは、これまでお前が対戦してきたどの力士よりも強いことは間違いない。その想像を絶する当たりはきっと、お前の度肝を抜くだろう」
「し、しかし、それと立合いで目を合わさないことが、どう繋がるというのですか? その意味が分からなければ、私はどうすることもできません」
何か、少しでも取組に対する不安を払拭したい千大王は、すがり付くように親方の顔を見た。
「意味? う~ん、それもそうか……」
それを聞いて暫く考え込むようにしていた友沼親方だが、口から出たのは突拍子もない話だった。
「お前、メドゥーサというのは知っているか?」
「メドゥーサ? 確か、ギリシャ神話かなんかの妖怪ですよね。髪の毛が無数の毒蛇で、見た者を石に変えてしまうという」
「そう、そのメドゥーサだ。千大王よ、お前の今日の対戦相手は菊卍ではない。世にも恐ろしい、ギリシャ神話の怪物メドゥーサだ。だから仕切りの間、お前は決してそのメドゥーサと目を合わせてはならん。目が合うや否や、お前の身体は立ちどころにただの石コロへと変えられてしまうであろう」
「そ、そんなバカな……」
あまりにも想像を絶する話に開いた口の塞がらない千大王であるが、お構いなしに親方は言い続ける。
「バカな話ではない。最近流行りの携帯小説やアニメ等では、そんな妖怪や鬼たちの話は幾らでも転がっておる。まあ信じる信じないはお前の勝手だが、現実の大相撲界にだって、そんな妖術使いの一人や二人がいたって、ちっともおかしくはないだろう」
「しかしですね――」
「現にうちの部屋にも一人、自分の腋臭で相手を失神させてしまった妖術使いがおるではないか」
「いや、あれは、だって……」
増田男の腋臭騒動には千大王も深く関係している。言い返すこともできなくなってしまった千大王に、親方は尚も「メドゥーサだ、メドゥーサだ」と、呪文のように繰り返す。しかしまさか自分の対戦相手がそんな妖怪であるなどというぶっ飛んだ話を、一体誰が信じるというのか。戸惑うばかりの千大王を、しかし友沼親方はそれ以上のアドバイスを与えることもなく部屋から送り出したのであった。




