千大王対菊卍 その1
三月の大阪場所。友沼部屋の力士たちは直前に行われた野々村部屋の三人の力士との合同稽古の成果か、挙って好成績を上げ、意気揚々と久須村へと引き上げてきた。
四月になり、友沼部屋に三人の新弟子が入門した。いずれもこの春高校を卒業したばかりの若者で、二人は力士、一人は行司の見習いである。この時点で友沼部屋には八人の力士と床山が一人、そして行司見習いが一人所属することとなり、他の相撲部屋に比べてもだいぶ遜色ない構成員が揃ったことになる。著しく若返りを果たし、まるで新しく生まれ変わったかのような新年度入りした友沼部屋では、連日、充実した稽古が繰り返された。
そして五月になると、夏場所の直前に再び野々村部屋の力士がやって来て、合同稽古が行われた。
こうして満を持して臨んだ夏場所。今や誰もが認める友沼部屋の看板力士となった千大王は、序盤から快進撃の相撲を取り続け、十四日目まで九勝五敗の好成績を上げていた。
友沼部屋にビッグニュースが飛び込んできたのは、その翌朝のことである。
「えっ、ええ~っ! 三賞~っ!」
その知らせにことのほか仰天するような声を上げたのは増田男だった。ムンクの叫びのようなポーズで頬に手をやると、目ん玉が飛び出るのではないかというくらい、爛々と目を輝かせたのである。
ドタドタと慌ただしく階段を駆け上がり、食後の休憩を取っている千大王の個室の襖をノックもせずにガラリと開けた。
「す、す、凄いじゃないですか千大王さん、いや、千大王関っ! 三賞ですよっ、サンショ~ッ!」
西前頭十枚目という番付で臨んだ今場所。千大王は小兵の部類ながら逃げずに真っ直ぐ低く当たる、そのしぶとい四つ相撲が技能相撲に当たると評価され、技能賞候補となったのである。
「いや、でもまだ、今日の相撲に勝たなければ受賞はないんだよ」
当事者たる千大王はしかし、増田男とは対照的な冷めた顔でそう言う。
そう、千大王の技能賞受賞には条件が付いていた。即ち、この日の相撲で勝たなければならないという条件が。そしてその千大王の冷めた表情たる一番の原因こそ、この日の対戦相手にあった。それが元大関の、佐渡ヶ瀧部屋の菊卍である。
先場所まで長い間大関を張っていた菊卍は、二場所連続で負け越し、カド番制度により大関を陥落した。だがこのカド番制度には救済処置がある。大関を陥落した次の場所で二桁の白星を上げれば再び大関に返り咲くことができるというものだ。そしてこの場所の菊卍がまさに、その制度によって大関への復帰を狙える場所なのであった。だが長年大関を張り続けた菊卍に、もはや若い頃の勢いはない。三十四歳という年齢を考えるとまさにラストチャンスであると、世間一般の評価はそう定まっていた。しかしそんな杞憂を吹き飛ばすかの如く、この場所の菊卍は好調を維持し続け、何の因果か天の采配か、十四日目まで千大王と同じ九勝五敗という成績を残していたのであった。
「あの好調の菊卍関に、私ごときが勝てるはずないでしょ」
千大王が言うように、頭を下げて重戦車の如く突進してくる菊卍の立合いは、角界でも一、二位を争う破壊力である。長年大関を勤め上げてきたベテランと、片や漸く前頭十枚目まで上ってきた若手とでは、その実力差は火を見るより明らかだ。巡業や連合稽古でもこの両者は手合わせしたことはなく、その初めての対戦となる取組の立合いでは、火の出るようなという言葉で表現される菊卍の当たりを残すことすら至難の技であろう。
「フッフッフッ……」と増田男は、そんな千大王の不安をよそに、不敵な笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ、千大王さん。菊卍関は前も見ないで突進してくるんだから、チャチャっと横に逃げちゃえば、勝手に土俵から転げ落ちてくれますよ」
悪魔のような低い声で囁く増田男の目元口元は大きく歪んでいるが、この男が一番に歪んでいるのはその性根であろう。
「そーんなことしたら、大変だよ。日本中の大相撲ファン、いや、全国民を敵に回すようなもんだよ」
確かに増田男の言うように、菊卍には立合いで相手に変化されて呆気なく負けるという相撲が、年に何番かはあるのだ。しかしもし、この大関復帰のかかった千秋楽の土俵で千大王がそんな相撲を取ったりすれば、その悪行は翌日のスポーツ紙の一面を飾ることはおろか、友沼部屋には抗議の電話が朝から晩まで鳴り止まず、故郷の両親は村八分の憂き目に遭い、いわんや普段から千大王ファンを公言している御仁などは、踏み絵を踏んだり神のゆるしを求めてコンチリサンの祈りを唱えたりしなければならなくなるに違いない。
太い眉毛に四角い顔で、いかにもお人好しのお相撲さん然としたベテラン大関だった菊卍には、子供からお年寄りまで、老若男女問わず大勢のファンがいる。だがこの時、悪魔の声で千大王の耳元で囁き続ける増田男には、そんなことは知ったことではなかった。
「ちょっと汚名を被るくらいが何だって言うんですか。三賞を取ったら、一体いくら賞金が貰えると思っているんですか」
「また君は、そうやってすぐにお金のことを言うんだから」
「二百万円ですよぉ~! ニヒャクマンッ!」
目の前に二本の指を翳し、大袈裟な身振り手振りで叫ぶ増田男は三賞受賞者に贈られる賞金の二百万円に目が眩んでいるのだ。もし千大王が受賞したら、自分もいくらかお小遣いが貰えるものだと思っているのに違いない。その様子はそう、サバンナでライオンが補食した獲物の屍肉に集る、ハイエナの如くである。
「あ~あ~、二百万円あったら、もう一生遊んで暮らせるのになぁ~」
「二百万円くらいでそんなはずないでしょ」
「あ~あ~、二百万円あったら、キャバクラに何回行けることやら」
「そういった力士たちの素行が厳しく問題視されるような風潮にある昨今、技能賞の賞金を全てキャバクラ通いに注ぎ込んでいるなんてことがマスコミにでも知れたら、それこそもう、普通には生きていけないよ」
「あ~あ~、二百万円あったら――」
「大体君は二百万、二百万て言うけどね、そこからは高い税金も払わなきゃならないし、当然、これまでお世話になった人たちにもお返しをしなきゃならない。私の手元に残るお金なんて、たかが知れているんだよ」
留まることを知らない増田男劇場を制し、千大王には珍しく、少しイラッとした口調になった。だがそんなことで凹たれるような増田男でもなく、しれっとした顔でいけしゃあしゃあと言い放つ。
「これまでお世話になった人たち? その中には俺も含まれているんですかね?」
「増田男君のことは、お世話した記憶は色々とあるけれど、お世話になったという記憶は、皆目見当もつきませんねぇ」
そう、増田男は色々と面倒臭そうだからと、これまで千大王の付け人になることすら拒み続けてきたのだ。
この日の菊卍との対戦のことで頭を悩ませている千大王には、これ以上増田男と下らないやり取りをしている余裕などなく、そう言って冷ややかな視線を送ると、ピシャリと会話を打ち切った。
「ちょっとちょっと、せめて焼き肉ぐらいはご馳走してくれるんですよねぇー」
最後まで未練がましく声を上げる増田男の背中を強引に押して、部屋から閉め出した。
「さぁ~ねぇ~」
襖越しに冷たく言い放つ千大王の頭の中はもはや、この日の取組のことで目一杯になっていた。




