野々村親方の友沼部屋周遊記 その1
野々村部屋の三人の力士が友沼部屋を訪れて行われた連合稽古の最終日。その日の夕方、何の予告もなしにひょっこりと夕餉の席に現れたのは、他でもない、その野々村部屋の親方だった。
角界きっての重鎮の登場に、広間の中には瞬間的にピリリと緊張した空気が流れた。しかし野々村親方は、敢えてその張り詰めた空気を切り裂くかのような低姿勢になり、一つ横へずれて席を空けてくれた千大王にペコペコと頭を下げ、「よっこらしょ」とのんびりした声を出しながら友沼親方の隣に腰を下ろした。
「親方、遠いところ、よくおいで下さいました。今夜は勿論、うちにお泊まりで良いですよね」
にこやかに笑いながら女将は、この地方の特産品だという日本酒の瓶を手にした。
「いや、本当はワシもそうしようかと考えておったんじゃが、しかし実はな、ワシはこの村には、一昨日の晩から来ておってな……」
にこやかな女将とは対照的に、何とも歯切れの悪い口調で、野々村親方はそう話す。
「ええっ、親方はもうこちらに、二日も前からいらしてたんですか?」
テーブルの斜向かいからグラスにお酒を注ごうと膝立ちになった女将は、そんな中途半端な姿勢のままで目を丸くして手を止めた。
「いやあ、本当は早く挨拶に伺おうと思っておったんじゃが、つい来そびれてしまってな。本当に申し訳ないことで」
同じように野々村親方も、右手に持ったグラスを少し前に差し出すという中途半端な姿勢のままでそう答えた。純米だろうと吟醸だろうと、日本酒と名の付くものであれば銘柄関係なく目がない野々村親方である。申し訳なさそうに左手で頭の後ろを掻きながらも、その双眸は女将がいま手にしている、その重たそうな一升瓶に向けられていた。
「それじゃあ、宿の方はどちらに?」
改めて親方のグラスに女将が冷酒を注ぐと、今度は友沼親方がそう尋ねた。
「ああ、商店街の中ほどにある、今年オープンしたばかりという新しい旅館に泊まっておる」
「へぇ~、あそこですか。なかなか評判は良いみたいですけど」
「ああ、そうじゃの。食事もなかなか良いぞ。だから今夜も、酒はご相伴に預かるが、食事は向こうで摂るから、それ以上のもてなしはいらんぞ」
少し野々村親方の口調がイライラとした早口になったのは、グラスに注がれた冷酒を早く呑ませてくれよと思ったからだ。
「なんだ、そうだったんですか。だったら親方、稽古の方も私と一緒にみてくれたら良かったのに」
まさか友沼親方も、稽古は全て私がみますから、親方はここでゆっくり休んでくれてたら良かったんですよとも言えず、嫌味にならない程度に、努めて少し恨めしい口調になるように心掛けてそう言った。
「美味いっ!」
堪えきれずにグラスの酒を半分ほど一気に呷った野々村親方は、思わずそう叫ぶと、幾分上気した顔を友沼親方に向けた。
「えーと、友ちゃん、何の話だっけ……?」
友沼親方より十歳も年上の野々村親方は、親しみも込めて友沼親方のことを友ちゃんと呼ぶ。
「あの、だから、せっかくこちらにいらしてたんなら、私と一緒に、弟子たちの稽古をつけてあげれば良かったんじゃないかと」
「うんうんそうそう。勿論ワシもそうするつもりじゃった。だが、そのつもりで友沼部屋の前に来てみると、稽古場からは小気味良い音が聞こえてくるではないか。気合いの入った良い稽古が出来ているのは部屋の外からでもちゃんと分かったぞ。そんな時にワシのような者が入っていってみろ。折角の良い空気に水を差してしまうではないか。ここは一つ、全てを友ちゃんに任せた方が良かろうと、ワシはそう考えたんじゃ。すまなかったのう」
「いや、そんな、ただ私は、本場所直前の弟子たちのことが気にならなかったのかと思っただけで……」
あたふたとそう話す友沼親方に、前に座った女将が早くも空いた野々村親方のグラスに酒を注ぎ足し、助け船を出す。
「それでは野々村親方は、この二日間、何をされてたんですか?」
「いやあ」と親方は、並々と注がれたグラスの酒に口をつけながら上機嫌な声を出す。
「この二日間、ワシはすっかりこの久須村を満喫してしまってな」
「……満喫?」
一瞬、言葉が上手く聞き取れなかった友沼親方は小首を傾げた。
「ああ、そうじゃ。この久須村は実に素晴らしい。とても数年前まで過疎の村だったとは思えん。随分と活気があるし、観光客もたくさん来ておる。それになんと言っても驚いたのは、商店街の中に、昭和レトロなパチンコ屋や射的で遊べるお店まであることじゃ。ワシのようなロートルにはたまらんぞ」
思わず童心にかえって遊びに興じてしまったと、屈託のない笑顔で親方は、そう話す。
「まあ、満喫されてたんなら、良かったですが……」
「それから、〈力士の湯〉にも行ったぞ。昨日は新館の方へ、それから今日は、高台にある本館まで行ってきた。あそこの露天風呂は最高じゃ。景色が良くて、日頃の疲れがいっぺんで吹っ飛んだわい」
「あれ? それだったら私たちも、今日はみんなで本館まで行ってきたんですが」
「ああ、ワシは朝から行ってきたからな。〈朝ぼらけの集い〉に参加したその足で、行ってきた」
「ええっ! 親方は〈朝ぼらけの集い〉にも、参加してたんですかっ!」
思わず大声を上げてしまった友沼親方に、その場にいた全員が顔を向けた。
「ああ、太極拳体操もやったし、それからあの、吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』も踊った。あれは楽しかったなあ」
「そんな、だって、あの場にいて、誰にも気付かれなかったんですか?」
「ああ、射的屋で貰った景品の、ひょっとこの面を着けていたからな」
「ええっ、ひょっとこの面っ! それじゃ、あの時の変テコな爺さんはひょっとすると――」と思わず口を滑らせた増田男が、「あ、いやあのその、ひょっとこだけにひょっとすると、なんちって」と慌ててごまかそうとする。
「お前かっ! あの時の無礼な奴は!」
一転して眉間に深いシワを寄せた野々村親方が、万引き犯を捕まえた古本屋の店主のような口調で増田男を睨み付ける。
「よくもあの時は、ふらついて尻もちを突いたワシのことを、笑い者にしてくれたな」
「あ、いや、あれはその……」
「お前はまた、よりによってそんなことを」
目眩を起こしたというように右手で両目を塞いだ友沼親方が、天を仰ぐ。
しかし野々村親方は次の瞬間、眉間に寄せた深いシワを解き、柔らかな笑顔になって口元を綻ばせた。
「それに比べて君」
「えっ、えっ、僕ですか?」
急に顔を向けられた平和は、身構えるように両肩をビクッと震わせた。
「あの時君は、尻もちを突いたワシのことを助け起こしてくれたよねえ」
「えっ、あれは、まあ……」
「ありがとねえ」
穏やかな笑顔を浮かべた野々村親方は、縁側で一人のんびりとお茶をすする好々爺のように見える。
「あの時差し出してくれた君の右手は、ずっしりとした安定感があって、腰の重たいワシでも安心して任せることが出来たよ。あの時ワシはすぐに分かったんじゃ。ああこれは、しっかりした基本の出来ているお相撲さんの右手だということがな」
「それは、えーと……ありがとうございます」
「君は今、幾つじゃ?」
「え、僕の年齢ですか? 十七歳です」
「平和は中学を卒業してからすぐにこの友沼部屋に入門して、この四月で丸二年になります」
言葉足らずの平和に成り代わって、友沼親方が言い添える。
「そうか。君は平和君というのか。なるほどなるほど」
まだあどけなさの残る平和を相手に穏やかに微笑む野々村親方の眼差しは、縁側で孫に桃太郎の絵本を読んで聞かせる人の好いお爺ちゃんそのものだった。
「どうだい。稽古は辛いか?」
「大変だけど、でも、楽しいことの方が多いです。僕、中学の時はいじめられっ子だったから……。だから、少しでも長くここに居られるように、頑張りたいんです」
「そうかそうか。十七歳といえば、これからまだまだ身体も大きくなる。今のまま初心を忘れずに精進すれば、平和君はきっと大成できるよ」
「そんな、大成だなんて――」
「任せて下さい、親方。平和はきっと、俺が一人前の力士に育て上げてみせます」
平和の肩に左手を置き、そう豪語するのは土佐武蔵である。
「ああ、君は、襁褓山君だね」
「えっと、それは、以前の四股名で。今は土佐武蔵といいます。これでも歴とした関取なんで」
野々村親方が相手では、さすがの土佐武蔵も怒るに怒れず、少し困ったような表情になる。
「はっはっはっ、分かっているよ。冗談だよ、冗談。しかし土佐武蔵君、君は関取といってもまだ十両だろう。やはり力士は、幕内に上がってこそ一人前だ。君はまず、弟弟子を育てる前に、自分が一人前にならなきゃ」
「それは勿論、分かっているのですが……」
「君の突っ張りはその一つ一つには威力があるが、息が上がってくると踵が浮いて上突っ張りになる悪い癖がある。あれを直していかないと、この先はなかなかきついぞ」
「ええ、それも勿論、百も承知で……」
この日、犇との三番稽古でこてんぱんにやられている土佐武蔵は、二の句が継げずに唇を噛み締めた。
「まあしかし、人の指導を親身になってするということは、自分の欠点を見直していく良い機会にもなるから、良い心掛けだと思うよ。土佐武蔵君は今、二十八歳だったっけ?」
「ええ、そうですが」
「それじゃあ、相撲人生はまだまだこれからだ。負けるなよ」
「はっ!」
力強く返事をした土佐武蔵は、頭を下げて目を閉じる。他の部屋の親方から励まされるのは、友沼親方から励まされるのとはまた違う響きを持って、土佐武蔵の胸に突き刺さった。負けるな――そのひと言には、自身が抱える右肘の古傷や貞子との結婚に関する様々な問題など、この親方は自分の悩みを全て分かっているのではないかと、そう土佐武蔵は瞬間的に錯覚した。
しかし当の野々村親方は、土佐武蔵にそんな励ましの言葉を掛けたことなどすっかり忘れたかのようなしわくちゃの顔になり、幸せそうに二杯目のグラスを空にした。




