野々村部屋三人衆の友沼部屋周遊記 その7
「うおりゃー!」「きえーっ!」「どりゃーっ!」「いや~ん♡」「ナンテコッター!」
野々村部屋の力士との連合稽古二日目、噂が噂を呼び、この日も友沼部屋の稽古場は大勢の見物客で賑わっていた。活気も稽古量も、通常より三割増しの猛稽古が延々と繰り広げられた。
充実した稽古で仲間意識のようなものが芽生えた彼らは、稽古が終わると揃って〈力士の湯〉へと出掛けていき、夕方になると全員で友沼部屋の食卓に着いた。
この日、再び久須村の酪農家から多くの差し入れが届けられ、リクエストに答える形で夕食のメニューは早々にすき焼きに決定していた。更にこの日は連合稽古最後の夜ということもあり、日本酒やビールなど、大量のアルコールも用意され、美味しいお酒と絶品の牛肉で、それはモー、誰もが夢見心地のような夕餉となっていた。
二日前のすき焼きで心ゆくまで舌鼓を打った野々村部屋の三人に、牽牛崇拝の精神で牛肉を拒むだけの強靭な意志など、もはや爪の先ほども残されてはいなかったのである。
食べ始めてから15分程が経過し、宴もたけなわとなったその時、ピンポーンと来客を知らせる玄関ベルの音が、一同のいる広間に鳴り響いた。
「参ったなぁ~、また牛肉の差し入れかな~」
と、酒に酔った誰かが言い。
「モー、こんなに食べきれましぇ~ん」
と、お口一杯にお肉を頬張った誰かが答える。
「あ、自分、行ってきまーす」
出入口の一番近くに座っていた丑満がフットワークも軽くそう言って立ち上がると、襖を開けて大広間を出ていった。その様子はそう、モーすっかり友沼部屋に馴染んでいるかの如くだった。
「ぎゅ~うにっく、ぎゅ~うにっく~……」
丑満はまるで子供のようなはしゃぎ声を上げると、浴衣の裾をはだけさせ軽いステップを踏むようにして廊下を進み、玄関ドアを開けた。しかしそこに現れたのは、あまりにも丑満の意表を突く人物だった。
扉が開くなりその人物は、開口一番こう言った。
「牛肉? お前、今、牛肉と言わなかったか?」
「お……、お……、親方……!」
顔を見るなり丑満の、そのアルコールの火照りで紅く弛緩した顔がみるみると青褪めていった。そう、そこにいたのは細かく分析したデータを重視するID相撲で、角界随一の厳格な親方だろうと言われる野々村親方だった。
「お前、確かに今、牛肉と言ったよなあ? 一体、牛肉がどうしたんじゃ?」
少しきつめの浴衣に身を包み、ただでさえ大きな顔が更に強調されている。モゴモゴとあまり口を開かずに呟くような独特なそのしゃべり方は、雷を落とす際の前兆であることも、丑満はちゃんと分かっていた。
「えっ? 牛肉? ぎゅうにくぎゅうにく……、ええと、その……急に、来るなんて、何かあったんですか、親方?」
「フンッ! いかにも白々しい科白だなっ! まあ良いわ。上がらせてもらうぞ」
言うが早いか野々村親方は、下駄を脱ぐと小さく畏まっている丑満の肩に手を置き玄関に上がった。そしてつかつかと足早に丑満の前に立って廊下を歩くと、一同が食事をしている大広間の襖をガラッと開けた。
「はいっ、あ~ん……」
折悪しく、いきなり開かれた襖のすぐ目の前に座っていた艮は、まるで餌をねだるヒヨドリの雛のように、大口を開いた間の抜けた顔を天井に向けていた。そのおぞましいまでに匂い立つ大きな艮の口の中へと、隣に座った親鳥役の日の出山が、甲斐甲斐しく箸で摘まんだ牛肉を、この時まさに落とさんとしていたのである。
「こりゃまた随分と楽しそうじゃないか、艮」
野々村部屋では決して見せたことのない呆れ返る程に無防備なその艮の顔面に、九十度に腰を折った野々村親方が、覆い被さるようにして顔を近づけた。
「……あん?」
天井に顔を向けた艮が、更にそっくり返るようにして声のした方に顔を向けた。
プゥーッ!
乙姫様の膝枕で寛いでいたらいきなり目の前に閻魔大王が現れた。そんな感じで大きく目を見開いた艮は猛烈なゲリラ豪雨でマンホールから噴き上げる水しぶきのように、口腔内に残っていた米粒を余すところなく天に向かって吹き出した。
「うわっ! 何だこりゃ、汚ねえっ!」
驚かすつもりが逆にやり返され、その大きな顔面に散弾銃のような粘ついた米粒の弾丸をしこたま受けた野々村親方は、慌てて手で払い除けながら尻もちをついた。
「野々村親方っ!」
いきなりVIP級の客人が登場したことで、慌てて立ち上がろうとする友沼親方と女将を制し、野々村親方は続ける。
「フンッ! お前ら三人揃って、こりゃ随分と楽しそうじゃないか? しかし、身体の方はちゃんと、仕上がっているんだろうな?」
言われた野々村部屋の三人は、お白州で裁きを受ける下手人のように正座になると、「ははぁー」と畳に額を擦り付けんばかりにひれ伏した。
「稽古はしっかり出来たのかと訊いておるんじゃ。このスットコドッコイがっ!」
「そ、それはモー……」
「抜かりなく……」
「食べて……、あ、いや、出来ておりまする……」
その剣幕に、更に頭を低くしながら震え上がる三人に、野々村親方は通常の声音にトーンに戻しながら、こう続けた。
「稽古さえ出来ておったらそれでええ……。え~い、いい加減、頭を上げんか。ワシは別に、怒っとりゃせん」
「えっ、いや、しかしですね。でも自分たちは、部屋の禁忌を犯して牛肉を食べて――」
顔を上げて言いかけた犇の言葉を、親方は右手を前に出して制した。
「それも別に構わん。今夜くらいは羽目を外して自由にやれ」
「本当に……、良いんですか?」
まだ疑ワシげな目を向ける犇に、親方は尚も続ける。
「ワシは元々、そんな厳格なヒンズー教の信者ではない。振りをしておっただけじゃ。だから、何がなんでも牛肉はダメというのではないぞ」
「ええっ、そうなんですか?」
「ああ、そうじゃ。熱心なのは元々、女将のスッチーの方だけで、ワシはアレの真似事をしておっただけじゃ」
野々村親方と女将の寿美子婦人は、角界ではオシドリ夫婦として知られている。
「ええっ、真似事なんですか? でもどうして、熱心な信者の振りなんか……?」
「まあ、ワシが女将に、頭が上がらないというのもあるが……」モゴモゴと親方は言葉を濁しながら、更に続ける。「しかし若い奴らには、ある程度の締め付けが必要だからな……。あれは半分は、お前たちの身体のことを考えてのことなんじゃ」
そう言うと野々村親方は少し考え込むような表情になり、意を決したように「コホン」と一つ咳払いをすると、尚も続けた。
「犇よ、お前は力士が一般の人より極端に短命であることを知っておるか?」
「タンメイ……?」
「寿命が短いということだ」
「あっ、自分は聞いたことがあります」
「俺も、知ってます」
口を挟んできた丑満と艮の方を見やり、親方はうんうんと頷く。
「力士にとっては、身体を大きくすることこそ、出世の近道じゃ。美味いもんを食ってぶくぶくと身体ばかりがでかくなり、それでもちゃんと出世できるのは、ほんの一握りの力士だけじゃ。残りの多くの力士は、三十にも満たない若さで辞めていく。大した学歴もなく、暴飲暴食で身体を壊して角界を去っていった者に、その後の人生の顛末がどういうものになるか、お前たち、考えたことがあるか?」
「え~と、それは……」
と三人は、何と答えたものかと、顔を見合わせた。
気がつけば野々村部屋の三人だけでなく、友沼部屋の力士たちも、野々村親方の言葉に自分たちの日頃の態度を重ね合わせ、箸を持つ手を止めて聞き入っている。日頃は傍若無人な振る舞いが目立つ増田男や、日本語のよく分からぬ将威までもが大人しくしているのは、野々村親方のオーラが成せる技なのだろう。
「もちろん親方衆の方で、そんな暴走しがちな若い力士たちを指導して健康を管理したり、第二の人生のための道を見つけてやることも必要だ。しかし力士自身の方でも、自分を律するための自制心というものが必要になる。その自制心を養う上で、野々村部屋では贅沢な食事の象徴として、牛肉を禁止としているだけなんじゃ」
そう言うと野々村親方は、順繰りに三人の目を見据えた。
「勿論、こんなことを話せるのは、お前たちだからじゃ。お前たち三人は、モーすでに、ある程度の出世は果たしているし、自分を律する自制心も兼ね備えている……とワシは信じておる。部屋の若い奴らには内緒だが、今夜くらいは構わん、日頃の鬱憤晴らしも必要じゃ。遠慮しないで楽しくやってくれ」
普段はいまいち何を考えているのか分かりにくい野々村親方のその言葉を聞いた野々村部屋の三人は、目頭を熱くした。頭を垂れながら小さく頷いた三人は、聞こえないくらいの声で返事をした。
「……はい」
しんみりとした沈黙の中、大広間にはグツグツと煮えたぎる、すき焼き鍋の匂いが充満していく。楽しかったはずの無礼講のような夕餉の席が、いつの間にやらお通夜のようになっている。柄にもなく一席ぶった野々村親方は、照れ隠しに友沼親方に顔を向けると、努めて明るい声を出した。
「ごめんよ友ちゃん、着いて早々にこんな説教臭い話をしちまって。これじゃあ、せっかくの楽しい食事が水の泡だな。それに今回は、随分とうちの力士が世話になってしまったようだな。いや、本当にありがとう」
「いやいや、親方、頭を上げて下さい。随分と良い稽古をさせてもらったのは、こっちの方なんですから。それに、親方のその考え方には、私も大賛成です」
改めて挨拶を交ワシた二人の親方は、相変わらず箸を止めている力士たちの方を向いて、手を叩いた。
「さあさあ、せっかくの美味い牛肉がもったいないぞ。食べよう食べよう」




