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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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野々村部屋三人衆の友沼部屋周遊記 その6

『営業中』と書かれた札がぶら下がっているのを、飲食店の入口などでよく目にする。それと同じように『稽古中』と書かれた札を、友沼部屋では稽古の間、玄関ドアにぶら下げるようにしている。そこには更に、『見学できます。気軽に立ち寄ってくださいね♡』と、可愛らしい文字が油性ペンで小さく添えられていて、道行く人の目を引いた。女将が用意したものだった。

 稽古の様子を一般の人に公開することは他の多くの相撲部屋でも行われていることだが、通常は事前の予約が必要で、稽古場での飲食や私語などを禁止とする厳格な決まりもある。そのため、よほどの大相撲ファンでないと見学に行こうなどとは思わないものだ。その点、友沼部屋のそれは敷居が低く、ぶらぶら歩きの観光客たちも、「それじゃあちょっと、覗いていってみようかな」などと気軽に立ち寄れる雰囲気が漂っていた。

 野々村部屋の三人の力士との合同稽古が行われているこの日、稽古場からは「うおりゃー!」「きぇーっ!」「いやーっ!」「やめてぇー!」などと、良くも悪くも元気な掛け声が上がり続け、その声は道行く観光客たちの耳を楽しませ、興味をそそられた多くの人が稽古場を訪れていた。

『稽古中』の札の隣には、この日めでたく『満員御礼』の札もぶら下がり、稽古場の中は、かつてない程の賑わいを見せていた。

 見物客の多くはこれまで相撲部屋などを訪れたことのない素人で、ぶつかり稽古に申し合い、三番稽古と、間近で目にするプロの力士同士がぶつかり合う迫力に、「お~っ!」と、驚きの声を上げていた。また、手の空いている力士は四股にテッポウ、摺り足と、見物客たちの盛り上がりに後押しされるように、普段の友沼部屋にはない勤勉さで稽古に励んだ。


 猛稽古の一日が終わり、夜になると大部屋の中からは大男たちによる(いびき)や歯軋りの大合唱が聞こえてきた。

 午前三時、しかしその部屋にいた一人の男は「う~ん、う~ん……」と遠慮がちな呻き声を上げながら寝苦しそうに身体を(よじ)り、まんじりともすることが出来ずにいた。野々村部屋の丑満だった。

 希に、枕が変わると眠れない、などというタイプの人がいるが、彼は特にそういうタイプではない。昼間の猛稽古で、くたくたに疲れきった身体は睡眠を欲しているのに、それを妨害する何かが、この部屋にはあったのだ。

 関取である丑満には今回、友沼親方は個室を用意していた。「それではありがたく……」そう言って用意された個室に寝泊まりすることにした兄弟子の犇とは違い、「自分はまだペーペーですから」と丑満は、幕下以下の力士が寝泊まりする大部屋で良いと、頑なに親方の申し出を固辞した。

 だが丑満が個室を固辞したのは、何も親方に遠慮したからではない。実は怖かったのだ。独り寝の個室が。

 何かいる……。

 いわゆる"視える"体質の丑満は、初めて友沼部屋の玄関を(くぐ)った瞬間に、そう感じていた。

 学生の頃から度々金縛りなどを体験したことのある丑満だが、それまでは、他の人に比べて少し自分は霊感が強いかな、くらいのイメージだった。だが相撲取りは、特に関取になると巡業などで地方へ出かける機会が多くなり、この二、三年、丑満のその才能は一気に開花した。真夜中の鏡や天井、窓の外など、滞在先のホテルや旅館などで度々恐ろしい体験をしてきた丑満は、敏感にそういうものを察知する能力を身に付けていたのだ。

 この部屋には、何かいる……。

 そんなことは勿論、誰に言えるはずもないが、部屋のトイレを使用したり歯を磨いている時など、それ以降も丑満はふとした瞬間に不穏な空気を感じ続け、いやが上にも恐ろしさはいや増すばかりだった。

 そして友沼部屋で過ごす二日目の夜であるこの日、それはついに現れたのである。

「う~ん、う~ん……」

 それまで苦しそうに寝返りを打っていた丑満の身体が正面を向いた瞬間にピタリと硬直した。いわゆる金縛りという現象だ。それと同時に、下半身から上半身へと、走るように鳥肌が立った。

「ヒッ!」

 反射的に、丑満の口からは悲鳴のような音が洩れた。

 つ、ついに来た……。

 言い知れぬ恐怖に全身総毛立つ思いの丑満だが、その正体を見極めるため、恐る恐る薄目を開けた。

 何度も繰り返される寝返りに、掛けられていた布団は横へと投げ出されていた。その剥き出しになったヘソの上、浮かぶようにそれはいた。白装束にザンバラ髪の落武者のような男が、丑満の方へと顔を向け、もの凄い形相で上から睨み付けていたのである。

 うわあっ――!

 友沼部屋の五人に野々村部屋の二人を加え、総勢七人が寝ている窮屈な大部屋。そのあまりの迫力に、今度こそ丑満は人目も憚らず叫び声を上げそうになった。そう、本物の恐怖体験というのは、何度味わっても慣れることはないのだ。だが絶叫となって迸り出るはずの声は喉の奥で詰まり、その先へと送られることはなかった。

 丑満はもちろん、そんな落武者のような男から恨みを買うような覚えはなく、何とかその男の視線から逃れようと、硬直した首を右側へと捻った。

「ヒッ!」

 だが捻った先に待ち受けていたのは、更なる恐怖だった。

 そこには落武者の大男より一回り以上も大きな何者かが、その下で寝ている増田男の首を、肩まで伸びた髪を振り乱しながら、あらん限りの力で絞め付けているのだった。それはまさに、この世の怨み辛みを全てその両腕に込めるかのような渾身の一撃であった。だがそんな状況においても当の増田男は、まるでどこ吹く風というような涼しい顔で、スヤスヤと静かな寝息を立てている。

 丑満の視線に気づいたそれが、ギロリと顔を横に向けた。

 それはタレントのマツコ・デラックスを更にデラックスにしたような、男とも女とも知れない、まさに妖怪としか呼びようのない異様な姿をしていた。お世辞にも綺麗とは言えないケバケバの化粧を顔全体に施し、それが不気味さに更なる拍車をかけている。恐ろしい妖怪のカッと見開かれた双眸に射すくめられ、もはや丑満は生きた心地すらしなかった。だがその超絶デラックス妖怪・マツコの視線は、布団で横たわっている丑満の上方へと向けられた。そこにはそう、ザンバラ髪の落武者の霊が、鎮座しているのだった。

 何事にも格の違いがあるというのは世の常であるが、その二つの霊の格の違いは、あまりにも明らかだった。ザンバラ頭が平幕の力士であるなら、超絶マツコ妖怪はまさに昭和の大横綱といったところだ。

 妖・マツコの存在に気づいたザンバラ頭の顔が、恐怖に歪む。だが、見るもの全てを石に変えてしまおうかという妖・マツコの血走った目力一万ボルトの双眸が、何故だかザンバラ頭と目が合った瞬間にハートの形にふにゃりと歪み、だぶついた目の下の肉が何重にもなって深いシワを作った。だがそれは、紛れもない、恋する乙女の瞳だった。

 いくら攻撃を加えどまるで手応えのない増田男の身体を、妖・マツコは即座に諦めた。フワリと浮遊したデラックス妖怪は、しなを作りながらザンバラ頭へと近づき、しなだれかかってきた。ザンバラはまるでムンクの絵から飛び出してきたかのような表情になると、慌てて丑満の身体を抜け出して遁走を試みた。しかし格の違いはそっくりそのまま能力の差でもあるのか、ザンバラに妖・マツコを拒むという選択肢は、もはや残されていないようである。そのまま二体の悪霊は、もたれ掛かるようにして友沼部屋の大部屋の壁を通り抜け、表へと飛び出していった。

 そして、そこには元の、何もない大部屋の暗闇だけが広がっていた。

「き、消えた……」

 思わずそう独り言ちていた丑満は、いつの間にか自身を苦しめていた金縛りが解けていることに気がついた。まるで、対戦相手が足を滑らせて勝手に白星が転がり込んできた取組のような、そんな呆気ない結末に拍子抜けする思いだった。そしてどうやら悪霊の世界にも、パワハラやセクハラの類いのようなものがあると知り、何ともやり切れない気持ちになった。

「しかし、この男は……」

 と丑満は、隣で寝ている男のことを見やった。

 増田男は、噂に聞いていた特徴のある腋臭をプンプンと振り撒きながら、相変わらずスヤスヤと静かな寝息を立てている。

 その何の悩みもなさそうな、呑気な寝顔を見ながら丑満は、昼間の稽古のことを思い出していた。

「もっと気合いを入れんか!」

 順繰りに対戦相手を入れ替えて行う申し合いにおいて、精彩を欠いた相撲ばかりを取っていた増田男は、友沼親方にそう発破をかけられていた。

「どうも最近、身体が重くて……」

 ヘラヘラと言い訳をするように話していた増田男の不調の原因は、どうやらこの悪霊のせいだったようだ。おそらく悪霊界のスーパースターとも言える超絶デラックス妖怪・マツコがその身に取り憑きながら、この程度の異変しか身体に感じないようでは、さぞや妖・マツコも取り憑き甲斐がなかったことだろう。

 だが悪霊の抜けた増田男が今後、バリバリに活躍するようになるかと言えば、それはまた全然別の話なのであった。

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