変化 その2
「おーい、床沼ーっ!」
ちゃんこ当番の増田男が、炊事場で大声を上げた。
「呼んだか?」
しかしそこに現れたのは、友沼親方だった。
「あれっ? 親方のことなんか、俺、呼んでませんけど?」
「そうか? だけど今、確かに、『友沼ーっ!』て声が、聞こえたんだがな」
「いや、俺が呼んだのは、床沼の奴ですよ。大体、親方のことをそんな、呼び捨てにして呼んだりするわけがないじゃないですか。いくら俺だって」
「そうか……。まあ、そうだな」
土間にある台所には、大きな鍋をかけられるコンロが三つもあり、広い調理台にはまな板や仕込みの用意されたボウルがいくつも置かれている。時には汗まみれになった男たちが何人も出入りするその場所は、もはや台所と呼ぶよりは炊事場という言葉が相応しい、そんな場所であった。
と、そこへ、遅れた床沼が小走りでやってきた。
「あ、増田男さん、ボクのこと、呼びました?」
「ああ床沼か。今日は客人が三人も来るんだから、お前もちゃんこ当番、手伝ってやれ」
腕時計に目をやりながらそう答えたのは、友沼親方の方だった。盛大に三人の客人をもてなすため、この日の夕飯はいつもの倍ほども用意することになっている。時刻は午後四時を過ぎ、それまではあまり時間もなくなっていた。
「あ、そうか! 頼まれてたこと、すっかり忘れてました」
そう言うと床沼は、自分の後退した額をペシリと叩いた。
「手が空いてる者がいたら後で応援に寄越すから、それじゃお前たち、頼むな」
そう言い残し、友沼親方は炊事場を出ていった。バタバタと忙しない足音が遠ざかっていき、二人きりになると、床沼が増田男に尋ねた。
「あれ? ところで親方は、何しにここへ来たんですか?」
訊かれた増田男は、夕飯の準備が遅れているイライラもあり、キッと床沼を睨み付けた。
「お前がそんな、床沼なんてややこしい名前にするからだろっ!」
「ん? ややこしい?」
床沼は、口を開けたまま首を傾げるという、まるで"ポカンとした"を絵に描いたような顔を具現化してみせ、増田男のイライラに更なる拍車をかけた。
月代こと沼倉孫八郎は、前の場所で力士を引退すると、新たに床山としてスタートを切ることになった。奇しくもそれは、智哉が引退したのと同じタイミングで、階級も同じ序二段であった。
入門してから五年にもなろうというのに未だ序二段という地位から抜け出せないでいた月代には、正直、相撲取りとしての才能はないと認めざるを得ず、そのため、自ら引退したいと言ってきた月代のその申し出を、親方はすんなりと受け入れることにした。ただその際に、親方は未だこの友沼部屋には不在のままだった床山になってはどうかと持ちかけてみた。しばらく考えた末に月代は、その申し出を受け入れることにした。
大相撲における床山というのは、ちょん髷や大銀杏など、相撲部屋で寝起きを共にしながら力士の髪結いを専門に行う人のことで、普通は日本相撲協会が採用し、採用資格は義務教育を修了した満十九歳までの男子とされている。また、明確な規定こそないものの、月代のように力士経験者が床山に転身することもよくあるケースで、月代には経験こそないものの、実家が理髪店を営んでいたということもあり、すんなりと話はまとまったのである。その床山には力士における四股名のようなものもあり、「床」の後ろに漢字を一文字つけるのが習わしとなっている。
しかし、その床山名をつける際に月代は、深い考えもなしに自分の名字の沼倉から「沼」の字を選んでつけたもんだからややこしいことになった。部屋の親方の「友沼」と髪結いの「床沼」、音にすると瓜二つとも言えるような二つの名前が、一つの部屋に存在する事態となったのである。
元々、床山というのはちゃんこ番や掃除に洗濯といった部屋の雑事を任されることも多く、それも床沼のような、まだなりたての見習い期間の者なら尚更で、何かにつけて部屋の者から呼ばれる機会も多くなる。あまつさえ、床沼は生来気が利く質ではないので、そういう場面はいや増すばかりで、先ほどのように聞き違えた親方が突然顔を出すこともしばしばであった。
まあしかし、常識的に考えて弟子が親方を呼び捨てにして呼びつけるはずがない。それは友沼親方にも分かっている。どうやら友沼親方は、わざと聞き違えた振りをしていきなり現れてみせ、弟子のギョッとした顔を見て楽しんでいるような、そんなフシがある。まあそれは、悪癖と呼ぶほどのものでもない、ほんの茶目っ気に過ぎないものではあったのだが。
しかしこの茶目っ気のお陰で、この日の夕飯の準備が思うように進んでいないことを親方は知ることとなり、炊事場には後から更に、日の出山と平和も助っ人に現れ、急ピッチで支度は進められた。男四人が忙しなく動き回る炊事場からは食材を刻む小気味良い音と、いかにも食欲をそそる温かな匂いが立ちこめ、それらは換気扇を通り抜け、夕暮れの通りへと溶け出していった。
ちょうどその頃、久須駅へと降り立った三人の客人は、大きな荷物を抱えたまま、匂い立つ山の空気を胸一杯に吸い込んでいた。




