変化 その1
「公務員の資格を取って、プロの消防士になる」
そう言って智哉が友沼部屋を去ったのは、三月場所が始まる少し前のことだった。
旅立ちの朝、長い髪をバッサリ切り落とし、部屋のみんなから見送られ列車を待つ智哉の顔は、これまでのちょっと捻くれた少年が嘘のような、清々しいものだった。
「お前も頑張れよ」
見送りの列の中、逆に見送られる立場の智哉の方が、一人いつまでも泣きべそを掻き続ける平和の肩に手をやり励ました。
「と……、智哉しゃん……」
鼻水を垂らしながら両手を広げて抱きつこうとする平和をしかし、智哉は思いっきり両手で押し返し、突っぱねた。
「俺にそんな趣味はねーよ」
「そんなあ……」
「そんな大袈裟なことはすんな。またちょくちょく遊びに来るから」
「本当?」
「ああ……。だってここは、俺の故郷なんだから。俺の両親の墓だって、ここにあるんだぞ」
「そっか……」
涙を拭った平和は、浴衣の袂からハンカチを取り出した。
「お前はまたそれで、鼻をかむ気か?」
「えっ?」
それはあの日、九州場所で宿舎を飛び出した智哉が、平和に渡した青いハンカチだった。その日を境に、平和は智哉といろんな話をするようになった。相撲のこと、家族のこと、辛かった中学時代のこと。これまで誰にも打ち明けたことのない、好きだった女の子のことも話した。
小学校時代には仲の良かった友達にも裏切られ、親友と呼べる存在のない平和にとって、智哉はもはやかけがえのない存在となっていた。だが、二人が親しくなってからはまだ、三ヶ月ほどしか過ぎていないのだ。
青いハンカチを見つめながら平和は、その時のことを思い出し、掌の中に強く握りしめた。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
ホームに近付いてくる列車に気付いた叔父が、智哉の肩に右手を置いた。スーツ姿のその叔父は、智哉とは似ても似つかぬ生真面目そうな四角い顔をしている。
「はい」
そう返事をした智哉は、最後に親方夫婦に向き直った。
「お世話になりました」
頭を下げた智哉の脳裏には、あの悲惨な火事の現場で二階から飛び降りた智哉を抱き止めた友沼親方の逞しい腕の感触が、まだしっかりとこびりついている。相撲取りとしては序二段までにしか上がれず、親方には全く恩返しすることの出来なかった自分を情けなく思う気持ちが不意に沸き起こってきて、すぐには頭を上げられなくなった。しかし不思議なことに、一番にしんどかったはずの稽古のことは頭を離れ、思い起こされるのはこの三年の間に巻き起こった様々なドタバタ劇のことばかり。
ああ、この友沼部屋は、何て楽しい場所だったんだ。せめてお酒が飲める年齢まで我慢して、このメンバーで酒を酌み交わしたかったな……。
友沼親方に辞めると告げて以来、初めて智哉はそんな強い後悔の念にとらわれ、深く頭を下げたままの智哉の目には熱いものが込み上げてきた。思わず洩れそうになった嗚咽を何とか堪えた智哉は、そんな顔を見られてなるものかとばかりに頭を上げるとすぐにくるりと後ろを向き、歩き出した。浴衣を脱ぎ、ダウンジャケットにジーンズというカジュアルな服装に身を包んだその後ろ姿は、どこにでもいる少年と少しも変わらぬものだった。
「あの子にとってこの三年間は、何だったのかしらね」
そう問い掛けるように呟いた女将の右手にも、あの日、隠れて煙草を吸っていた智哉をひっぱたいた掌の感触が、今でも鮮明に残っている。
「智哉は……、ずいぶん成長しただろ?」
虚勢を張るように上を向いて歩く智哉の後ろ姿を見つめながら親方は、しかしその肩が小刻みに震えているのに気付いていた。
「そう……、そうよね。智哉くん、逞しくなった」
中学時代、本人が地獄の様だったと話す、居心地の悪かった東京の親戚の家に戻る決意をした智哉。両者の間でどのような話し合いが持たれたのかは知らないが、しかしそこの主人がわざわざこうして一人で列車を乗り継ぎ迎えに来たことで、これまで親代わりとなって面倒をみてきた二人に、深い安堵感を与えていた。
「プロの消防士か……。智哉は良い選択をしたと思うよ。この三年間は、回り道だったのかも知れないが、真っ直ぐ進むばかりが人生じゃない。時には寄り道だって必要なのさ」
「ああっ、それって――」
「そう、寄道寺の住職の言葉だ」
そう幸せそうに笑いあう二人は、さりげなく視線を下げ、女将のお腹に目をやった。
そこにはまだ、見た目には少しの膨らみも兆しもないが、諦めかけていた二人にとっては初めてとなる小さな子供の命が、静かに宿っているのである。つい一週間前に判明したこの事実を、二人はまだ誰にも打ち明けず、まるで二人だけの秘め事を楽しむかのように口を噤んでいた。
まるで桜が満開となる頃のような穏やかな陽気の中、智哉を乗せたくすんだオレンジ色のローカル線の列車は、駅舎を後にした。




