電気風呂 ~日の出山のチン百景~
二月になり立春が過ぎた。そしてつい先日は、東京で春一番が吹いたというニュースも流れた。だが暦の上では春とはいえ、山奥の村、久須ではまだまだ真冬の寒さが続いている。
大相撲の世界では年六回の本場所の他、地方巡業も年に四回あり、そのスケジュールは慌ただしいことこの上ない。しかし二月というのはそのどちらも予定にはなく、少しのんびり出来る季節なのであった。
この日、前日の稽古で腰を痛めた日の出山は稽古を休んで朝から整骨院に行き、マッサージを受けた。そして午後になると一人で〈力士の湯〉へと、やって来ていた。
この〈力士の湯〉には電気風呂がある。電気風呂というのは浴槽内の腰掛けに設置された電極板から低周波の電流が流れている風呂のことで、その電流を腰などの痛む部位に当てるとマッサージ効果があるとされているものである。日の出山は普段からここの電気風呂が大のお気に入りで、まだ痛みの残る腰を擦りつつわざわざこうして足を運んだのは、電気風呂に入るという目的があるからであった。
だがこの日は、その電気風呂の腰掛けがなかなか空かないのである。その浴槽内には電極板の設置された腰掛けは二つしかなく、日の出山が入ろうとするタイミングの時には常に先人がいて、未だに日の出山は電気風呂に浸かることが出来ずにいる。しょうがなしにサウナに入ったり露天風呂に行ったりを繰り返しているのだが、普段から特別に長風呂でもない日の出山は、そうしているうちに少しのぼせてしまっていた。
大体このところ、久須村を訪れる観光客の姿も増え始め、平日の昼間だというのに〈力士の湯〉には多くの人出があり、けっこうな賑わいをみせているのだ。こうなりゃもうと日の出山は、電気風呂の近くに設置された足湯に浸かりながら待つことにした。電気風呂を使用している御仁が出るや否や、空いた腰掛けを奪ってしまおうという待ち伏せ作戦である。
電気風呂を使用している御仁のうちの一人は、痩せた筋肉質の年配の男だった。世を儚んだ気難しそうな顔で湯に浸かり、モンゴロイドにあるまじき深く落ち窪んだ目をギュッと瞑り、修験の者であるのかブツブツと念仏のようなものを唱え続けている。浅黒いその肌は健康的であるのを通り越し常人離れするほどであり、一心不乱に瞑想に更ける姿はまさにこの瞬間、解脱せんとする一歩手前へと差しかかったかのようで、恐らくこの御仁は自身が生き仏と化すまで電気風呂に浸かり続けるだろうと思われた。
これは無理だと諦めた日の出山は、もう一方の腰掛けに目をやった。
こちらには解脱男とは対照的な、不健康そうな色白の肌をした、恐らく百キロくらいはありそうな若い男が座っている。その太っちょはどうやら腰が痛むのか、顔を顰めながら右手で腰を擦っている。
「フッフッフッ……」
俯いた日の出山は人知れず笑みを漏らした。
あんな若造に、あの強烈電気ビリビリが長時間耐えられるわけがない。浴槽を出るのも時間の問題だ。そう思ったのである。
そしてしばらくするとその男は、日の出山の目論見通り、腰掛けから立ち上がる気配を見せたのである。
「フッフッフッ……」
再びニヤけた笑みを浮かべた日の出山は、俯きながらその男が浴槽から出てくるのを待った。だが待てども待てどもその若者が浴槽から出てくる気配はないのである。
何やってんだ、あいつ?
日の出山は顔を上げた。すると目にしたのは、その若者が浴槽の縁に腰を下ろし、のん気な顔で両足の先だけを電気風呂の腰掛けに浸けている姿だった。
な、なんちゅうマナー違反! あ奴は、人気で競争の激しい電気風呂の腰掛けを、こともあろうに足湯のように使い、独り占めする気でござるか!
だが気弱な日の出山にはそのことを注意することも出来ず、歯噛みする思いでその状況に甘んじるしかなく、そんなイライラから、普段から怠惰な生活態度でダラダラと過ごしているからそんなに太って腰も悪くするんだぞと、自身のアンコ型の体型のことは完全に棚上げして、その若者へ心の内で罵りの声を上げた。
と、そこへ、八十絡みと思しき、アバラの浮き出た鶏ガラのような身体をした老人がヒョコヒョコと現れた。
その老人は、なんの疑問も持たぬ躊躇いのない振る舞いで電気風呂の浴槽へと降りると、毛穴という毛穴を全てパテで塗り潰したかのような見事なその禿頭をニワトリのトサカのように小刻みに動かし、フラフラと湯に揺られながら腰掛けへと向かっていった。ラーメンに目がない日の出山は、今この瞬間、この浴槽の湯で出汁を採ったら、さぞかしイケる鶏ガラスープが出来るのではないかと夢想したが、しかしその老いた鶏ガラの向かう先の腰掛けは両方とも塞がっていて、はて、この先はどういうことになるのかと、固唾を飲んで見守った。
二つある腰掛けのうち、その老人が選んだのは太っちょの若者がいる腰掛けの方だった。どうやら極端な腰曲がりのせいで、その若者が足先だけ湯に浸かっているのが分からないらしい。そしてユラユラと頼りない足取りで電気風呂の腰掛けまで進み出たハゲ頭の鶏ガラ爺さんは、こちらに向き直ると、何の疑念も持たぬまま太っちょの若者が足先を入れているその腰掛けに、チョコンと腰を下ろしてしまったのである。
その瞬間、その電気風呂の腰掛けには下にニワトリ上にブタという二匹で結成した、ブレーメンの逆さ音楽隊のようなものが出来上がった。
もちろん、勝手にそんなへなちょこ音楽隊のブタ役をやらされる事態となった太っちょの若者だって黙ってはいない。
「ちょ、ちょっと爺さん、どいてくれよ」
少し頬を赤らめながら遠慮がちにブウブウと文句を言うが、一方の鶏ガラ爺さんは極度のつんぼであるのか全くどこ吹く風といった風情で、気持ち良さそうに目を瞑りながら腰に電気を当てている。
「おい、爺さん、爺さん! 聞こえねえのかっ!」
語気を荒げ、次第に声も大きくなる。すると、それに呼応するかのように、隣の解脱男の念仏も音量が一段上がった。
「おいっ、このクソ爺いっ!」
それでも無反応の鶏ガラ爺さんに、ついに若者は怒鳴り声を上げた。解脱男の念仏も更に音量を上げ、どういうわけだか心持ちテンポも速くなった気がする。
するとこの時、偉そうに広げた若者の両足の間に深く座りこんでいた鶏ガラ爺さんの身に、世にも不思議な現象が起こり始めた。頑固に凝り固まっていたはずの爺さんの腰が、気持ち良さそうに電気を当てているうちに、少しずつ動き始めたのだ。長い間開けることがなく、著しく錆びついてしまった鉄の扉。強烈な潤滑剤を当てたその扉が、ギギィギギィと重い軋み音をたてながら漸く動き始めるように、爺さんの腰も緩慢な動きではあるものの、着実に上へと反り返り始めたのである。
「おいっ、ちょっと待てっ!」
だが一度動き始めた爺さんの腰は止まらない。そして反り返るように腰が動けば必然的にその先にある頭頂部も持ち上がっていく。今や完全に毛髪力を失い無機質のようになってしまった鶏ガラ爺さんのハゲ頭。東の大地より姿を現したそのツルリとありがたい御来光頭が目指す先には、太っちょの両足の間にデーンと垂れ下がったナスビのような巨大なイチモツが、まさに鎮座ましましているのである。
「あわわわ……」
起こり得る最悪の事態を思い描いた太っちょが、泡を食ったような声を上げた。助けを求めるような男の虚ろな視線はウロウロと宙空を彷徨い、目が合いそうになった日の出山は慌てて目を反らし下を向いた。
その電気風呂の腰掛けは建物の壁面を背にしているため、特にこんな太った身体をもて余している者には逃げ場はなく、着実に迫り来る鶏ガラ爺さんの進撃を受けるばかりなのである。日の出山は自身が電気風呂に浸かれていない悔しさから、その若者の窮地を救ってやろうなどという気持ちは更々なく、頃合いを見計らって再び視線を上げた。
気が付くと足湯に浸かっている日の出山の周りには何人ものギャラリーが集まり、「ホッホゥー」「これはこれは……」などと固唾を飲み、興味深そうにその様子を眺めている。足先だけ湯に浸かり、電気風呂を独り占めしようとした若者のマナー違反に、誰もが忸怩たる思いでそれを見ていたのだろう。
三十センチ、二十センチ……、いよいよ迫り来る進撃のハゲ頭に、隣の解脱男の念仏も更に音量を上げ、ここがクライマックスとばかりに今やそのテンポは誰の耳にも明らかなほど早まり、額からは滝のような汗がにじみ出ている。
そしてそして、ついに鶏ガラ爺さんのハゲ頭は、九十度の垂直にまで伸びきったのである。
「きゃあっ!」
その瞬間、いきなり暗闇から現れた下半身丸出しの露出狂に出くわした乙女のような、そんな太っちょのかん高い悲鳴が浴場の天井に反響し、男湯の中を響き渡った。
それと同時に最後は喧しいほどの声音で唱えていた解脱男の念仏はピタリと止み、収穫時期を逃して萎れきったナスビのような巨大な太っちょのイチモツが、まるで見習いの床山が結った出来そこないのチョンマゲのように、鶏ガラ爺さんのツルリと禿げ上がった御来光頭に、音もなくふにゃりと密着した。




