一年納めの九州場所 ~千大王修編 前編~
千大王は悩んでいた。いや、悩んでいると言うとちょっと大袈裟になるが、しかし、こう思うようになっていた。最近とみに、自分の友沼部屋における影が薄くなっているのではないか、と。
増田男は言うに及ばず、日の出山、将威、月代と、良し悪しはともかく、この友沼部屋の力士たちはみな、個性的な男ばかりだ。智哉と平和の若手コンビも最近妙に仲が良いし、存在感が出てきた。そして先ほどの取組で十両昇進を確実にしたばかりの襁褓山だ。彼は関取に昇進したら結婚すると名言していたこともあり、この九州場所における襁褓山の勝敗は、友沼部屋一番の関心事となっていた。
だが千大王は、なにも自分が目立ちたいと考えているわけではなく、というか、どちらかと言えば自分は目立ちたくない部類の人間だ。例えばこの友沼部屋を舞台に奮闘記のようなものを描くとしたら、自分は主役を張りたいとも思わないし、張れるような人間だとも思っていない。襁褓山が関取になってこの部屋を引っ張っていってくれるのなら、これ程ありがたいことはないと思っている。ただ、自分に個性がないと言われることには少し反発を覚えるのも事実だ。突出した個性がないということも、それはそれで一つの立派な個性だと考えている。
しかし相反して、突出した個性への憧れみたいなものは、いつの時も千大王の胸の奥深くに密かに保ち続けていた。
元々が相撲のことにしか興味のない相撲オタクで、関取になって与えられた個室には、相撲関連の本や雑誌、そして毎年発行される力士年鑑のバックナンバーがずらりと並んでいる。平均体重が160キロにもなる群雄割拠の関取衆の中で、130キロそこそこの小さな身体でその地位を守り抜いているのは、それ相当の努力をしているからだ。
それ相当の努力――それはときに、友沼親方が芸術的だと評する右四つの型だったり、あるいは両手をクロスさせて相手の懐にもぐり込む立合いや、相手の目を見て行くぞと見せかけてからの引き技だったり、そんな細かなテクニックの数々だ。
だがそんな技の一つや二つは、幕内に昇進するくらいの力士であれば誰しもが持っているものだし、特別な称賛に値するものではない。そう、突出した個性に値するような技ではないのだ。
千大王はこの大相撲という競技の奥深さ、面白さを後進に伝えていくためにも、何か、誰の目にも明らかな、例えば千大王スペシャルと呼べるような必殺技のようなものを編み出したいと考えるようになっていた。
そんなある晩のことだった。突如として、千大王の頭に天啓のようなものが舞い降りたのは。
その時千大王は、自室で横になりながら就寝前のひと時を過ごしていた。疲れた身体で微睡みつつも、頭の中では翌日の対戦相手のことばかり考え、目は何となく点けっ放しのテレビ画面の方を向いていた。
そのテレビ画面には、元有名進学塾のカリスマ講師だったその人が出ていた。決めのポーズと共に放つそのフレーズがしばらく前に流行語となり、それをきっかけに芸能人に転身したその人は、その博識、博学さを重宝され、最近流行りのバラエティーやクイズ番組などに引っ張りだことなっている。
新陳代謝の激しい現代の芸能界の中で、とうに廃れた感のあるそのポーズを、その人はこの時、例の決め台詞と共に微睡みながらテレビ画面を向いていた千大王の両の眼に向かって繰り出したのである。
はっ――!
その人の両手が振り下ろされた瞬間、半分寝ていた千大王の身体を、雷に撃たれたような衝撃が貫いた。
ああ、こ、これは……? この動き……、この手の動かし方……! これこそ、もしかして、私が追い求めていたもの……?
それはもちろん、これまでにだって何十回、いや何百回とテレビで目にしていたはずのものだ。それが何故だかこの時、新たな天啓となって千大王に降臨したのである。
この日以来千大王は、その人の両手の動かし方をヒントに、新たな必殺技を習得するため密かに動き始めた。
もし仮に、その動きを千大王スペシャルとでも呼ぶとしたら、申し合いの合間合間に千大王スペシャルを挟みこみ、目立たぬように繰り出した。それはタイミングさえ合えばビックリするくらいきれいに決まることもあるが、しかし少しでもタイミングがずれてしまえば、みっともなく土俵の上に転がされたり、呆気なく土俵の外へと押し出されてしまうのであった。
「最近ちょっと、調子が悪いんじゃないか?」
部屋の稽古とはいえ、これまでにない淡白な相撲で負けることが増えた千大王を心配した友沼親方が、そう声を掛けてきた。
「あ、いや……、ちょっと、疲れが溜まっているだけだと思います」
「そうか、まあ、あまり無理はするな」
そんな優しい言葉を掛けてくれる親方に申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、それでも千大王は事情をひた隠し、あくまで内密にことを進めようとした。「実は、千大王スペシャルの習得に取り組んでまして――」などとは、そうそう言えるものではなかった。
一瞬のスポーツである大相撲においては、簡単そうに見えることでも、仕掛けるタイミングやスピード、重心のかけ方、手足や身体全体の角度など、ちょっとした違いが大きな違いになり、一つの技を習得するためにはそれらのことを身体の芯まで覚え込ませる必要がある。稽古の申し合いであまり大っぴらに出来ない分、千大王は四股やテッポウ、摺り足などのトレーニングの合間にも千大王スペシャルの型を覚え込ませる訓練をし、夜、寝る時も頭の中でイメージトレーニングすることを怠らなかった。
そうしたことの積み重ねで、徐々に千大王スペシャルの精度は増していき、ついにはあまり意識しなくても出来るようになっていた。そう、自然と身体がそれを覚え始めたのである。
うん。そろそろ良い頃合いかな。
場所前、千大王はそう思ってこの九州へと乗り込んで来たのであった。
そうはいっても稽古と本場所の一番では、それは全く別のもの。稽古で出来るようになったからといって、本番でそれが出せるかというと、そんな簡単にはいかないのである。しかも千大王はこの場所、西十両一枚目という、再入幕に向けて一番も無駄には出来ない番付にある。千大王スペシャルをいつ出そうかと機会を伺いながらも、そのチャンスに恵まれないまま、終盤の十四日を迎えていたのであった。




