負けて楽になれ! その2
じ、自分は一体、どうすれば良いんだ?
土俵に上がった千大王は、軽いパニック状態に陥っていた。
3勝3敗で迎えた秋場所最後の取り組み。十両昇進をかけたこの運命の一番に臨む千大王はしかし、昨夜師匠である友沼親方から命令され、この一番はすっかり負ける積もりでいた。それまで感じていた鬼のような重圧からは解放され、およそ一週間ぶりにぐっすりと眠ることもできた。師匠から「死相が表れている」とまで言われた、くっきりと隈の浮き出た血の気の失せた顔も、朝、顔を洗う時にはすっかり元の顔に戻っていた。
そう、この取り組みはただ単純に負けてくれば良いのだと、千大王は何も考えず、呑気に構えていた。朝稽古も通常通り行い、食欲もすっかり元に戻っていた。国技館に入り、支度部屋にいる間も何も問題はなかったのだ。
ところがいざ土俵に上がってみると、その肝心の負け方が分からないことに気が付いた。
ど、どうやって負ければ良いんだ?
千大王は助けを求めるように、うろうろと土俵下を見回した。もちろん、そんなところに答えがあるわけではなく、アドバイスをくれる親方がいるわけでもない。
俄に不安を感じ始めた千大王は、どこかふわふわした雲の上でも歩くような覚束無い足取りで仕切りを行い、気が付くと全身にびっしょりと脂汗をかいていた。
対戦相手は、名門土塚津部屋の力士、土不知。千大王と同じく学生相撲の出で、何人もの人気力士を輩出した名門、見本大学の出身だ。千大王とは同学年に当たり、学生時代には何度も対戦した。大相撲界に入ってからも二度の対戦があり、これまでの対戦成績は1勝1敗の五分である。もし今、ライバルは誰かと訊かれれば、千大王は土不知の名前を挙げたかも知れない。
土不知は千大王と同じく、四つ相撲を得意としているが、千大王が右四つの型を得意としているのに対して、土不知は左四つ、所謂ケンカ四つという奴だ。
しかし、困ったことになったぞ、と千大王は、必死に考えを巡らせる。
お互いの相撲を熟知した土不知との対戦では、自分が手を抜いてわざと負けたりすれば、それはいとも容易く相手に見抜かれてしまうだろう。もしもそんなことが相撲協会に知れたら、自分だけでなく、親方も何らかの処分を受けてしまうかも知れない。そんな事態だけは、何としてでも避けなくてはならない。
ああ、何たることだ。この日の対戦相手が土不知だということは分かっていたのに、そんなことも考えないまま、土俵に上がってしまうとは――。
だが、幕下の取り組みでの仕切り時間は、パニックに陥った考えをまとめるにはあまりにも短く、あっという間に制限時間となっていた。
「手を突いて」
千大王は結局、何の考えも浮かばないまま行司に促され、あたふたと手を突いた。それと同時に軍配は返り、次の瞬間にはもう、土不知の顔が目の前に迫っていた――。