一年納めの九州場所 ~襁褓山保編 後編~
土俵へと向かう花道をぐるりと取り囲む会場の客席には、既に多くの観客が詰めかけていた。十両昇進のかかった襁褓山の、この場所最後の取組だった。
対戦相手は唐紅部屋の大紫。大紫も現在、東幕下二枚目で3勝3敗と五分の成績だ。もしこの取組で同じく3勝3敗の襁褓山を下せば、十両昇進の優先順位が筆頭となり、来場所の十両昇進が確実となる。
その大紫は先場所、付け人への暴力行為が発覚し、出場停止処分となって幕下へと降格したという経緯がある。普段から素行に問題ありとされていた大紫だが、相撲だけをとればその実力は、誰もが関取級だと認める若手のホープなのであった。
初の十両昇進をかけた襁褓山と、片や信頼回復を図る復帰場所の大紫。両力士にとってこの一番は、どうしても落とせない一番なのであった。
自身の年齢のことや四股名の問題、それになんといっても貞子との結婚の問題と、この大一番に臨む襁褓山には人生の分岐点ともいえる様々な問題があり、相撲だけに集中しろと願えば願うほど、襁褓山の頭の中を様々な柵が、ぐるぐるととぐろのように渦を巻き続けた。
襁褓山の長い相撲人生においては、重圧のかかる一番というのもいくつも経験してきた。負けたら終わりという学生相撲のトーナメント戦や、増田男との三段目の優勝決定戦などがそれである。だがこの日の取組は、それらの戦いとは比べものにならない程の重圧を襁褓山に与えていた。
土俵に上がった襁褓山の額からは大粒の汗が吹き出し、心臓はバクバクと早鐘のように脈打ち、全身の筋肉が緊張で強張るのが分かった。
どうした武蔵、俺はこんなに緊張する、情けない男だったのか。
自らを叱咤し、渇を入れるように襁褓山は、仕切りの最後に自分の顔をパンパンと、両手で二度叩いた。
そんな襁褓山の緊張を見てとった大紫の口角が、僅かに持ち上がる。関取経験者である自分の方に分があると、余裕からくる笑みだった。
なんだそのニヤけた面は。俺がお前みたいな若造に負けるとでも思っているのか。
付け人への暴力行為が明るみになったことからも知れるように、まだやんちゃ盛りな最近の若者といった風体の大紫を睨み付けるようにして、襁褓山は静かに腰を下ろした。そしてゆっくりと両手を下ろし、呼吸を合わせようとしたその瞬間、まさに零コンマ一秒にも満たない僅かな差をつき、先に大紫が手を突いた。
あっ、と思った襁褓山が両手を突いた瞬間には、もう目の前に大紫の顔があった。
襁褓山より一回り以上も小さな大紫の身体が、もぐり込むように両方の前褌に手を掛け、そのまま土俵際へと襁褓山を寄りたてる。後退した襁褓山は左足を俵に掛け、肩越しの両上手という苦しい体勢で何とか堪えている。大紫の頭が顎に当たり、ジリジリと襁褓山の身体が反り返っていく。すぐに右の足も徳俵に乗り、襁褓山はその顔に苦しい煩悶の表情を浮かべた。このまま堪えられるのも時間の問題だ。
"あんまり無理して、怪我だけはせんようにね"
その襁褓山の脳裏に、前の晩に貞子が言った、最後の言葉が浮かび上がる。
許せよ、貞子!
襁褓山は、そんな苦しい体勢から腕の力だけで大紫の身体を吊り上げると、そのまま一歩二歩と前進した。その恐るべきパワーに大紫も慌てた表情だが、それでも必死に右の足を襁褓山の左足に掛け、外掛けで崩しにいく。
一旦、土俵の中央付近に大紫の身体を下ろした襁褓山は、掛けられた左足を外して大きく体を開くと、今度は素早く右からの上手投げを放った。襁褓山に吊り上げられ、上体の伸び切っていた大紫に、もはやこの強烈な上手投げを残す術はない。背中からゴロンと土俵の上に転がり落ちていった。
勝利した瞬間、襁褓山は反射的に古傷のある右肘付近に手をやった。無理な体勢からの吊り技で、襁褓山は過去に何度も右肘を痛めているのだ。
ああ、またやってしまったな。
程度の差こそあれ、自分が何らかの痛手を負ったことは間違いないと思った襁褓山だが、不思議なことに今回だけは何の痛みも感じることがない。そう、それはまるで魔法でも掛けられたような、そんな感じだった。
しかしこの二年近く、襁褓山は大好物の牛乳を稽古前に飲むことを自粛している。以前はバカにしていた四股やテッポウなどの地道な稽古を、特に平和が入門してからは真面目に取り組むようになった。そして友沼親方が推奨する太極拳にも真剣に取り組むようになった。
なにか自分の身体にも目に見えない良い兆候が現れているのではないかと誰かに感謝したい気持ちになり、襁褓山は晴れ晴れとした表情で土俵を下りた。
28歳、貞子よ、俺はまだまだやるぞ!
温かな拍手の中、決意も新たに花道を下がる襁褓山は、この次に花道を歩く時は関取として歩くのだなと感慨深くなり、鳥肌が立った。そしてその先に続く景色も明るい色を伴って一気に襁褓山の目の前に開けてきたような気がして、ついヤッホーと叫びながらスキップを踏んでしまっていた。それはその昔、子供の頃に貞子と二人で砂浜でよくやった遊びだった。
その様子をテレビカメラが捕らえ、テレビの前で正座をしながら観ていた貞子は涙で画面がボヤけ、どこまでも砂浜を行く楽しげな二人の後ろ姿を、瞼の裏にいつまでも思い描いていた。




