一年納めの九州場所 ~平和と智哉編 後編~
九州場所十一日目、隠れて煙草を吸っていたところを見られた智哉は、宿舎である寄道寺の境内を飛び出していった。その後、人気のない夕暮れの公園のベンチに一人で項垂れている智哉の姿を見つけたのは、平和だった。それまで親密に話などしたことのない二人であったが、普段は無口な智哉が、この時に限っては饒舌に胸の内をさらけ出し、二人の話し合いは長々と続いていた。
「俺は近いうちに、ここを出ていくつもりだ」
そして智哉の口をついて出たのは、そんな衝撃的な言葉だった。
「ぼ、僕だって、こんな公園にいつまでもいませんよ 」
想像もしていないことを言われ、平和はそんなとんちんかんな受け答えをした。
「ばか、そうじゃねーよ。俺は近いうちに、この友沼部屋を辞めるつもりだって言ってんだよ」
「なんだ、そうですか。僕はてっきり……って、えっ! ええっ! 友沼部屋を辞めるっ!?」
あまりにも驚いた平和は、思わずベンチから勢いよく立ち上がっていた。
「ああ、そうだ。でも、このことはまだ、誰にも言ってねーけどな」
「な、なんで……、だって、智哉さんは……」
智哉に向き直って興奮したように震えながら話す平和とは対照的に、静かな声で智哉は「まあ座れよ」と平和を促し、更に続ける。
「相撲取りを辞めることは、もう、けっこう前から考えていたんだ。だけど、辞めてどうするか? それがなかなか決められなくってなあ」
「そうですよ。親方も女将さんも、あんなに良い人で、部屋のみんなも良い人ばかりで……。まあ中には、変わった人もいるけど……。何か、不満でもあるんですか? 稽古がきついとか?」
「そりゃまあ、稽古はきついさ。だがそんなことは、俺が育った環境に比べりゃ、屁でもないさ」
「智哉さんが育った環境?」
「ああ……。お前、俺の家族のことは、聞いているだろ?」
「えっ、ええ……。火事でお父さんとお母さんを亡くされていることは……」
「うちの親父は、ひどい男でな。大した稼ぎもないくせに、酒に煙草にギャンブルだろ、恐らく、女遊びだって相当やってたんじゃないか。まあ、あんまり詳しくは言いたくないけど、酔っ払うと暴力だって振るうし、あの火事だって、あの親父の寝煙草が原因なんだ」
「それは……」
大した稼ぎもないのに酒もパチンコもやるのは平和の父親も一緒だが、きっとそんなものとは程度が違うのだろうと、平和は想像を巡らせた。少なくとも、暴力を振るわれたことなどは一度もない。
「そして俺は、東京の親戚の家に預けられることになったんだが、そこでだって俺の居場所なんて無かったさ。例えばみんなが、居間でテレビなんか観て談笑してたりするだろ。そこに俺が入っていったりすると、とたんにシーンと静まり返っちまうんだ」
「そんな……」
「そんなものに比べれば、稽古がきついくらいは屁でもない。ここでの暮らしは、まるで天国だったさ」
「それじゃあ智哉さん、辞める必要なんてないじゃないですか?」
「そんな俺の身の上を知っているから、親方も女将さんも、どうしたって俺には甘くなる。あの火事の時、逃げ遅れた俺と妹を助け出してくれたのは、他でもない、親方なんだ」
「そ、そうだったんですか……」
「ああ、そうだ。でも相撲部屋の親方が火事で子供を助けたなんて、変な美談にでもされたら叶わんから、このことは黙っていてくれって、親方からは固く口止めされているけどな」
「確かに、それはマスコミが喜んで飛び付きそうな話題ですもんね」
「そんな親方の善意につけ込んで、相撲の才能のない俺が、いつまでもここに居続ける訳にはいかないんだよ」
「そんな、善意につけ込むだなんて……。それにまだ智哉さん、入門して二年も経ってないじゃないですか」
「二年もやってりゃ、自分に才能がないことくらい、分かるさ」
「例えもし、そうだったとしても、相撲取りじゃなくたって、行司や呼び出し、あるいは床山とか、ここで出来ることは他にもいろいろとあるじゃないですか」
「お前は俺が、あんなチンケな恰好で幕下の土俵に立つ行司の姿を想像出来るのか?」
「ええっ! そ、それは……」
そう言われた平和は、木綿の衣装に身を包み、裾をスネまで捲り上げ、腋臭スペシャルで勝利した増田男に渋い顔で軍配を上げる智哉の行司姿を想像し、思わず吹き出しそうになった。
「ああっ、お前っ! 今、俺の、情けない行司姿を想像して笑っただろ!」
「いや、笑ってませんよ」
「いいや、笑った! 絶対笑った! 間違いなく笑っている!」
「あ、じゃあ、ちょっとだけ笑いました」
「このヤロー! やっぱり笑っているんじゃねーかよ!」
そう言って智哉は、大きな平和の後頭部を、ヘッドロックでも掛けるように脇で挟み込んだ。
「ごめんなさい、智哉さん! 苦しい、苦しい~っ!」
二人はまるで仲の良い兄弟のようにじゃれあったが、不意に、智哉の顔が真顔に戻った。
「お前さっき、俺もいじめたのかって、ちょっと怒ったよな」
「いや、あれはその……、すいません」
「いや、いいんだ、謝るな。でも一度な、こんなことがあったんだ。俺が廊下を歩いていたら、いじめられて突き飛ばされた奴が、思いっきり俺の身体にぶち当たってきやがってな」
「そ、それで智哉さん、どうしたの?」
「もう、頭にきたから、ボコボコにしてやったさ」
「そ、そんな……」
「違うよ。いじめてた方の奴らをだよ。四、五人はいたかな? 全員まとめてボコボコに殴ってやったよ。まあ、俺も、少しは殴られたけどな」
「四、五人も! 智哉さん、すごい!」
「それ以来あいつらな、いじめの現場に俺が現れると、蜘蛛の子を散らすように逃げて行くようになったんだ。こうやって俺が、わざと不機嫌そうな顔を作りながら歩いていくとな」
そう言って智哉は、切れ長の目を細め、眉間にシワを寄せて吊り上がり気味の目尻を更に吊り上げてみせた。
「智哉さんのその顔、迫力ありますもんねー。すごーい、正義の味方みたいだー」
と平和は、まさに拍手喝采せんばかりの喜びようだ。
「そんなんじゃねえけどよ。どうやら俺が転校して親戚の家に預けられたっていうのが、誤解されて伝わったらしいな」
「誤解?」
「ああ、あいつは少年院帰りのとんでもねえワルらしいぞ、みたいな」
「へ~え、智哉さん、『噂の男』だったんですねぇ」
「噂の男?」
「知らないんですか? 前川清さんの有名なヒット曲ですよ」
「ばか、それは『噂の女』だろ。なんでそんな古い曲を知っているんだ?」
「智哉さんこそなんで? あーあ、でも僕の学校にも、智哉さんみたいな人がいてくれたら、僕もあんなにいじめられなくてすんだのになー」
「そうだな……、お前のこと、助けてやりたかったな……。でもなんか、こうやってお前と話をしていると、俺も自分の進む道が見えてきたような気がするよ」
そう言って智哉は、ふっと表情を緩めた。
「本当に智哉さん、辞めちゃうつもりなの?」
「……ああ」
「そんな……、せっかくこんなに、仲良くなったのに……」
「まあ、どこにいたって、お前のことは応援しているから、必ず関取になれよ。なって、お前のことをいじめてた奴らを、見返してやれ」
「そんなこと言わずに、智哉さんも一緒に頑張りましょうよぉ~」
そう言う平和の目には、熱いものが込み上げてきた。
「ばか、お前、そんなことくらいで泣くんじゃねぇ!」
「智哉しゃ~ん、うぇぇ~ん」
ついに泣き出した平和に、智哉は浴衣の袂からハンカチを取り出した。
「ほら、これで涙を拭け」
「そんな、こんな綺麗な木綿のハンカチーフ――」
「いいから気にするな。餞別にくれてやる」
「そんな、餞別だなんて寂しいこと、言わないで下さいよ~。うぇぇえ~ん」
そして平和は、その智哉から貰った青いハンカチで鼻を覆うと、盛大にチーンとやった。
「ばか、きったねえ! ほら、もう帰るから立ち上がれ」
「か、帰るって、どこへ?」
よろよろと力なく立ち上がった平和は、項垂れながらそう訊いた。
「寄道寺に決まってんだろ。早く案内しろ」
「案内? ……分かりません」
「分からない? お前、人を探しに来ておいて、帰り道が分からないとは、一体どういう了見だ!」
「だって、もうすっかり暗くなっちゃったし、こんな迷路みたいな住宅街で、どっち行ったらいいか、分かるはずないじゃないですか。もう、完全に迷い道クネクネですよ」
開き直ったようにそう言う平和に、智哉が言う。
「そういう時、最近の若者は、すぐにスマホで調べるんだよ」
だが平和は、しれっとした顔で言う。
「スマホ、持って来ませんでした」
「お前、外出する時はスマホぐらい持って行くのが、最近の若者の常識だろ。それをなんだ、さっきっから黙って聞いてりゃ、『噂の女』だの、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』だの、挙げ句の果ては渡辺真知子の『迷い道』か。話の合間合間に昭和歌謡を挟み込んできやがって。一体お前は、本当の年齢はいくつなんだっ!」
「智哉さんだって、全部分かってんじゃないですか。それに、そんなに言うなら、智哉さんが自分のスマホで調べれば良いじゃないですか」
「俺はだって、ちょっと煙草を一服していただけだから――」
「最近の若者なら、咥え煙草でうんこ座りしながらスマホでもいじってたら良かったじゃないですか」
「うるせー、このヤロ! 大体だな――」
「あっ、いたいた。お前たち、こんなところにいたのか」
漫才のように二人で掛け合うその声を聞き付けたのか、突然、一人の浴衣姿の大男がその公園に現れ、声を掛けた。襁褓山だった。
「あっ、襁褓山さんも来てくれたんですかー」
嬉しそうに顔を緩めた平和に、歩み寄った襁褓山は開口一番こう言った。
「晩飯もまだなのに、俺はもう腹ペコだよ。よし、それじゃあ三人で、早く寄道寺へ帰るぞ。平和、案内してくれ」
「えっ、ええ~っ! 案内っ!」
そう仰天した声でお互いを向き合った平和と智哉は、一頻り大笑いした。




