一年納めの九州場所 ~月代大五郎編 後編~
「あれっ? 沼倉はみんなと一緒に、〈力士の湯〉に行かなかったのか?」
「ああ、親方……、すいません。何だか、自分の四股名をどうすればいいのか、全然決められなくて……」
四年前の夏、入門して間もない月代は、まだ本名の沼倉をそのまま四股名にしていた。蜩の鳴く夕暮れ、その沼倉は扇風機だけ回した汗ばむ陽気の大部屋に一人籠り、辞書と力士年鑑を首っ引きで自分の四股名についてあれこれと思い悩んでいた。
「そうか。まあ、そんなに重く考えるな。取り敢えず何か適当に付けておいて、出世したらまた変えたって良いんだし。何なら今はまだ本名のままだって、一向に構わないんだぞ」
「そんな、沼倉孫八郎なんて、全然強そうじゃないし、全くイケてませんよ」
「まあ、それはそうかも知れんが……。それじゃあ沼倉は、例えばどんな感じの四股名にしたいんだ?」
「ボクはやっぱり、戦士もののアニメとかが好きなんで、そういうイメージの四股名が良いですね」
「戦士もの? 『サイボーグ009』とか?」
「『サイボーグ009』? 何ですか、それ?」
「まあ、俺もよくは知らんが……。それで、そんなイメージの四股名は全く思い浮かばんのか?」
「これだというのも二つほどあったんですけど、調べてみるとそれはもう既に、他の部屋の力士が付けちゃってて……。やっぱりみんな、考えることは一緒なんですね」
「そうか、それは残念だな。で、それはどんな四股名なんだ?」
「一つ目は、これです」
そう言うと沼倉は、得意気に一枚の色紙を差し出した。そこにはお世辞にも達筆とは言い難い癖のある丸っこい字で、『命名 美勇山』と、油性マジックで大袈裟に書かれていた。
「ビ……、ビユウザン……!」
それは腫れぼったい唇に黒縁眼鏡、そして当時既に出来上がっていた後退した額の、いかにもな感じのオタク君だった沼倉の見た目からは想像も及ばない四股名であった。
そんな親方の、驚きで言葉もない反応を自分のネーミングセンスに対する脱帽と取った沼倉は、もう一枚の色紙をどうだと言わんばかりの得意満面顔で差し出した。
『命名 愛咲桜』
同じような拙い文字で色紙いっぱいに書かれた四股名を見た友沼親方の顔がいよいよ凍りつく。
「あ……、愛の咲く、桜と書いて、アイショウオウ……!」
勘弁してくれ。何だこのナルシスト全開の気持ちの悪い四股名は、と歌舞伎役者が見得を切る時のような声で読み上げた親方の反応を逆の意味に取った沼倉は、更なる得意満面顔で饒舌に喋りだす。
「そう、酷いでしょう。せっかく思い付いた傑作が、二つとも既に使われているなんて。だからボク、何としてでもそれ以上の傑作を捻り出したいんです。でもそんな傑作は、やっぱりそうそう思い付くものでもなくて。それならもういっその事、二つの四股名をくっ付けた愛咲美勇桜なんて――」
「ちょ、ちょっと待て、お前。今はまだ、自分の身の丈に合った四股名にしといた方が、無難じゃないのか?」
少しは自分の見た目のことも考えろと、友沼親方は怒鳴りたい気持ちを抑え、オブラートに包んでそう言った。
「えっ? 身の丈に合った?」
そう言われてもどういうことなのかピンとこない様子の沼倉に、
「例えば、そうだな……」と親方は、沼倉のやけに後退した額付近をチラチラと見やりながら「月代なんていうのはどうだ?」と言った。
「えっ? サ、サカヤキ……? それは一体、どういう字を書くんですか?」
「お前、月代を知らんのか? 『月の代わり』と書くんだよ」
「月の代わりで月代? 月の代わり月の代わり……」
すると、ブツブツと独り言のように呟いていた沼倉の目が突如としてカッと見開かれ、いきなりビックリするような大声を出した。
「月に代わって成敗じゃ!」
腰をくねらせながら両手でピストルのような形を作り横に向けるそのポーズはまるで、昭和の時代に流行ったギャグ漫画のようでもあるが、それは沼倉が戦士もののアニメに嵌まるきっかけとなった「美少女戦隊セーラームンムン」が決めゼリフを言うときのポーズなのであった。
「えっ!」
仰天してひっくり返りそうになっている友沼親方のその横で、尚も沼倉ははしゃぎ回り、右に左に腰を振りながら何度も繰り返す。
「月に代わって成敗じゃ、月に代わって成敗じゃ、月に代わって成敗じゃ~!」
「お前……?」
「親方っ! ボク、この四股名、気に入りました。ボクの四股名は、今日から月代ですっ!」
「お前っ、良いのかそれで? だって、月代というのはだな――」
「ええ、良いんですっ! ボクは、月に代わって悪者たちを成敗するんですっ!」
「そうか……」
まあ最近は、ウルトラマンだの仮面ライダーだの妙ちくりんな四股名も増えているから、そんなものに比べればまだましかと親方は無理矢理自らを納得させ、沼倉の四股名を月代と承認することにした。更には本人がイケてないと漏らしていた孫八郎から大五郎に改名することとなり、ここに新たに友沼部屋の力士、月代大五郎が誕生した。
「四年前のあの日、親方は月代の意味も知らずにはしゃぎ回るボクのことを見ながら、心の内で嘲笑っていたんだ……」
激しい剣幕で友沼親方に詰め寄った月代は一転、涙声で喉を詰まらせ、下を向いた。思い出すのは四年もの間、その意味も知らずにはしゃぎ回った己れの滑稽な姿だ。
本場所後に開催される打ち上げパーティーや、千大王が十両昇進を決めた時に行われた祝賀会。とかく何かにつけて相撲部屋というのは宴会が行われる。そして友沼部屋には増田男や日の出山のような宴会芸の達人がいる。そんな折りには月代も彼らに負けじと例の「月に代わって成敗じゃ!」を披露してきた。そしてそれは月代の鉄板ネタとして、披露する度に必ずウケてきた。だがそれは、ウケていたのではなくてただ単に自分が笑われていただけなんだと、四年分の重さを伴いながら負の思い出と反転して降りかかってきた。そう、自分は四年もの間ピエロを演じてきたんだと、涙声はとうとう嗚咽となって月代の喉を震わせた。
「そう、みんなみんなボクのこの間抜けな四股名のことを、ずっとずっと影で嘲笑っていたんだ……」
すると、嘆き悲しみ、立ち直るきっかけすら掴めそうもない月代に、断固とした口調で友沼親方は言い放った。
「月代、それは違うぞ」
「違う……? どこが違うと言うんですかっ!?」
食ってかからん勢いの月代に、親方は冷静に続ける。
「お前は辮髪というものを知らんか?」
「ベンパツ……?」
「ああ、そうだ。こういう字を書く」
そう言うと親方は、月代から油性マジックを借りて紙に大きく書いてみせた。
「辮髪というのは我が祖国、モンゴルの成人男性の伝統的な髪型でな、頭髪を一部残して剃り上げ、残りの髪を三編みにして後ろに長く垂らした髪型のことだ」
「あっ、それ、昔のアニメで見たことあります」
「そうか。格好良いだろ。あれはな、モンゴルの遊牧騎馬民族が、いざ戦闘という時に兜で頭が蒸れないようにするための髪型なんだ。その頃のモンゴルは強くてなあ、中国はおろか、東アジアの大部分まで征服して統一国家を作ったこともあるんだぞ」
「へえ~、それは凄いですね」
話題を逸らされた形となった月代は、いつの間にか機嫌が治っている。それを見た友沼親方はシメシメと思いながら、尚も話を続けた。
「そうだろ。だから辮髪は、今でもモンゴル人の男子なら誰でも憧れる髪型なんだよ。ところがだな、俺は相撲取りになるために日本に来てみて驚いたことがある。なんと日本の武士にも、モンゴル人の辮髪のような風習があったというのだよ」
「べ、辮髪みたいな……ですか?」
「ああ、そうだ。そしてそれが、お前の四股名の月代だ」
「辮髪が……、月代?」
「ああ、そうだ。鉄製の兜を被った日本の武士は、やはり頭が蒸れるという理由から、兜の頂上に通気孔を開け、額ぎわから頭頂部にかけて頭髪を半月形に丸く剃る習慣があったんだ。そう、それが月代の由来だよ。その歴史は古く、そういう風習はもう平安時代にはあったそうだ。そして戦国時代になると,月代を剃っていることが勇敢さの証にもなり,武家の男子は成人になると兜を被らなくても月代を剃るようになったと言われている」
「へえ~、親方は、随分と日本のことに詳しいんですねえ」
さっきまでの怒りはどこへやら。月代はすっかり感心した様子で親方の話に聞き入っている。
「まあな、これでも日本のことは色々と勉強したんだ。それでな、これは自分だけの考えかも知れないが、俺は月代が日本を救ったんじゃないかと思っている」
「ええっ! 月代が日本を救う? それは一体、どういうことですか?」
話は大きくなる一方だが、ことさら真面目な顔の親方は、「うむ」と大きく頷くと、更に先を続ける。
「東アジアの大部分を征服したモンゴルの軍勢は、当然のように小さな島国である日本もその手中に納めようと攻め込んだ。戦うことに特化した辮髪姿の軍団、言わば戦闘のプロ集団だ。そんなのが大挙して押し寄せれば、日本なんぞ訳なく打ち負かすことが出来る。だがモンゴルは負けた。それも一度ならず二度までも。何故だ?」
「えっ? な、なんで……?」
「モンゴルが辮髪なら日本には頭髪を剃って主君に忠誠を誓う月代があるではないか。よく大和魂なんて言葉があるが、まさにそれだな。モンゴルはその日本の、言わば絆の力とでもいうものに負けたんだよ。そう、月代の勝利だ」
「さ……、月代の勝利……!」
「ああ、そうだ。そして俺はこの輝かしい月代の称号を、日本の戦記文学に造詣の深い若者が入門してきたら与えてやろうと、ずっと心の内で温めていたんだ」
「戦記文学? 造詣の深い? ボ、ボクはただ単に、美少女戦士もののアニメが好きなだけですが……?」
「まあ、どちらも似たようなものだ」
と親方は、破綻しそうな理屈を不利な体勢からの強引な上手投げのように力業でねじ伏せようと、殊更真面目な表情を取り繕い、更に続ける。
「あの日あの時俺は、大部屋の片隅で辞典と首っ引きで四股名について真剣に悩んでいるオタク……、いやお前を見て、ああこいつだ、栄誉ある月代の称号に相応しいのはお前しかいないと確信したんだ」
「ほ……、本当ですかっ?」
「ああ、本当だとも」
もちろん嘘である。月代というのはあの日あの時、悩める彼のハゲ上がった額を見ながら親方が出まかせのように口にした言葉だ。そう、これまでの話は、いつか己れの四股名の本当の意味を知るであろう月代が、自分に文句を言いにきた場合に備えて用意していた、言わば壮大な屁理屈であった。
しかしその真相はどうあれ、肝心なのはそれを本人がどう取るかだ。友沼親方はこの時、自分の話に感激しながら声を震わせている月代を見て、うん、これならイケると踏んで、いけしゃあしゃあとその壮大な作り話を、最後まで口にした。
「親方っ! 有り難うございます。ボクはこの月代の四股名に恥じぬよう、これからはいっそう精進いたします!」
「そうか。分かってくれたか」
そしてこの日を境に、決意も新たに生まれ変わった月代だが、かといってそう簡単に出世の道を歩むようになったかと言えば、それはまた別の話なのであった。




