踊る満員電車 ~続々・有明吾朗の悲劇~
のっぴきならない事情によって、不慣れな満員の通勤電車に揺られていた有明吾朗。そこへ突如現れた何者かが、有明の鬘を奪っていく。慌てて有明が振り返ると、その不届き者はあっという間にその気配を消し去っていた。周りにそれらしきブツを手にしている者はなく、床を見渡しても、どこにも鬘は落ちてはいなかった。
そう、増田男がずる剥いてしまった鬘。それは、有明吾朗が自分の命よりも大切にしている鬘だったのだ。
ど、どこだどこだ、わしの鬘は、どこだぁーっ!?
真っ青になった有明は思わず髪を掻き毟ろうと頭部に手をやり、しかしそこにはすでに申し訳程度に残存した頭髪が疎らに生えているだけだという事実を否応なく実感させられ、あまりのショックに心臓が凍りつきそうになった。
有明吾朗の頭髪が鬘だという事実。それは、大相撲協会よりトップダウンで断を下された、ごく一部の限られた者にしか知らされていない極秘事項だった。
この後有明は、テレビの大相撲中継に出演する予定になっている。しかし愛人宅から朝帰りをし、臍を曲げた妻に自宅を閉め出され、この日着ていく積もりで用意していた大島紬の着物を身に着けることが叶わずに、やむなく友人の星林檎から着物を借りることとなった。もしもこのまま鬘が戻らずに貧相な髪のままで両国へと出向けば、その衝撃の度合いたるや、それはいつもの和装からは少し見劣りするといった程度のインパクトとは比べるべくもなく、甚だしいものとなるはずだ。それは誇張でも何でもなく、日本中に衝撃、いや笑撃の渦を巻き起こす事件となるはずだった。
その時である。有明のすぐ傍を一人の浴衣姿の若者が通り抜けた。コソコソと怪しい動きのその男は、犇めき合う車内を人の隙間を縫うように移動していった。
ん……、あいつは……?
その大きく目の剥き出た独特な顔立ちには見覚えがある。確か先場所、三段目で変な活躍の仕方をして話題になった、増田男とかいう力士だ。
何してんだ、あいつ?
と、増田男の動きを見るともなく見ていた有明の目が、ギョロッと大きく見開かれた。すし詰めになった通勤客たちの隙間から、増田男がその手に握りしめている怪しげなブツが、瞬間的に垣間見えたのである。
あっ! あれは、わしの鬘だっ!
「お――」
おい、とマスク越しに、思わず大声を上げそうになった有明だが、慌てて思い留まり、「コホン」と一つ咳払いをして口を閉じた。
今ここで、わしが有明吾朗であることを悟られてはまずい。こんな多くの衆人の目がある場所で、あの有明の頭髪が実は鬘だった、などということが知られてはならんのだ……。
ん――!?
そこでまたもや有明は驚くべき光景に出くわし、大きく目を見開いた。怪しい動きの増田男が向かう先、そこにはその昔、大相撲の歴史上、最も輝ける成績を残した雷電為右衛門を彷彿とさせる大男がいたのだ。そしてそのビッグ為右衛門の頭頂部には、いわゆる頭髪と呼ぶべきものが見当たらぬ、ツルンと光り輝く見事な禿頭だった。
まっ、まさか、あいつ……!?
だが増田男は、そのまさかを本当に実行しようとしているらしく、するすると人の隙間を縫いながら、大男へと近づいていく。
あいつはわしの鬘を、事もあろうにあの大男の物だと勘違いしているのか? そしてあいつは、世界に二つとないあの高価なロマンスグレーの鬘を、あのハゲえもんの頭に戻そうとでもしているのか?
待て待てと増田男の向かう先へ移動しようとした有明だが、小兵力士の増田男とは違って、大柄な有明はすし詰めの車内を人の隙間を縫うように移動することが難しい。あまつさえこの日はヨレヨレのスウェットにマスク、そして極めつけはハゲ散らかった頭頂部という貧相な姿なのだ。少しでも不審な動きをしようものなら変質者と間違われかねない。有明は歯噛みする思いで増田男の動静を見守りつつ、目立たぬように一歩ずつ、近づいていくのが精一杯だった。
「ふぅ~っ」
犇めき合う人の隙間を縫いながら、規格外の大男の元に漸くたどり着いた増田男は、そこで大きく息を吐き出した。
麓から見上げたそのミスター・チョモランマの頭頂部はあまりにも高く、荘厳ですらあり、そのツルリとありがたい御来光頭にすっかり魅了された増田男は、思わず柏手を打ちそうになった。しかし当の大男は「スースー」と、相変わらずの呑気な寝息を立てている。
ようし、やるか……。
ゴクリと唾を飲んだ増田男は鬘を握りしめた掌にビッショリと汗をかき、本場所の取組でも見せたことのない真剣な表情で一つ頷いた。そして鬘を持った右手を上に掲げると、チョモランマの頭頂部目掛けて慎重に伸ばしていった。
と、その時である。何の前触れもなく急ブレーキを踏んだ電車がガタンと大きく揺れた。
ぶっ!
勢い余った増田男は、そのままチョモランマの北壁に強か顔を打ちつけた。その反動で件の鬘は増田男の右手を離れ、通勤客で犇めき合う車内の天井目掛けてふわりと舞った。それはまるで花から花へ蜜を求めて飛び回るアゲハ蝶のようでもあり、しかし鬘はくるくると予測不能の回転をしながら、それでも奇跡的にミスター・ハゲランマの三角点に、ふにゃりと音もなく着地した。
「ラッキー!」
思いがけない幸運にそう口を滑らせた増田男だが、次の瞬間、それはとんでもない間違いだったことに気付いて目を剥いた。
大相撲の世界でも滅多に見ないような規格外の大男。手も足も顔面も、その全てが規格外の大きさで、当然の事ながらその頭頂部などは、もしや人類の亜種ではないかと疑うほどの大きさである。だが有明の鬘は通常のホモ・サピエンスが身に着けるサイズであり、余りあるチョモランマの頭頂部に、それはまるで萎れた茄子のヘタのようにぺチャリと張り付いた。そう、もはやそれは鬘の体をなしてはいなかったのである
わ、わしの鬘がぁ~。
その様子を目の当たりにした有明は、これまで大事に扱ってきた大切な鬘が、まるでテレビコントのようにぞんざいに扱われ、目眩を起こして泣き崩れそうになった。
そして増田男にぶつかられてさすがに目を覚ましたミスター・ハゲえもんだが、総身に五感の行き渡らない残念な大男は、頭の上の違和感にも全く気付く様子がなく、欠伸を堪えながら眠い目を擦っている。
そのまま電車は、次の停車駅に到着した。すると、のんびりした口調のハゲえもんが口を開いた。
「ああ、俺、降りま~す」
しかしその駅は、山手線の中では極端に乗降客の少ない駅で、チョモランマ以外に降りようとする者はいなかった。
のっしのっしと冬のヒマラヤを、雪を掻き分けて進むイェティのように、萎れた茄子頭の大男が扉へと向かう。そしてハゲえもんが一歩進む度に、危ういバランスで載せられた頭頂部の鬘は、左へ左へとずれていく。
「まっ、まっ、待ってくれぇ……」
もはや貧血を起こしかけていた有明が、力ない声で手を伸ばし、ハゲえもんの後を追う。しかし扉は、萎れた茄子頭のイェティが降りた直後、有明が降りようとした寸前に、その鼻先で情け容赦のない無機質な音を立ててピシャリと閉じた。その瞬間、昭和の相撲人気を支えた稀代の横綱であった有明は、そんな威厳など微塵もない惨めな姿で力なく崩れ落ちていった。
「……わしはもうダメだ。今日はもう国技館へは行かぬ。解説者も辞める」
車内で抜け殻のようになった有明は、電車を降りるとすぐに星林檎に電話をした。
己れの頭髪が鬘だったことは長年の友人にも内緒にしていたことだが、もはや自暴自棄になった有明はすっかり事情を説明し、涙ながらにそう言った。しかしそれを聞いた星林檎は、明るい声で言葉を返した。
「それなら俺が、ちょうど良い鬘を持ってるから、それを貸してやるよ」
「何っ! ほっ、本当かっ?」
言われた有明は、地獄で仏に会ったような気持ちになり、再び力を取り戻すと星林檎の家へ向かった。
有明が訪れると、それは居間のテーブルの上に恭しく載せられていた。まるで禁断の玉手箱を開くように、専用のケースに仕舞われた鬘が現れた瞬間、有明は喉を詰まらせて声を失った。
「こ……、これは一体――!?」
午後になり、有明吾朗は放送が始まる直前になって国技館へと現れた。彼と一緒に放送を担当する、その姿を見たアナウンサーが驚きの声を上げた。
「あれえ? 有明さん、髪型を変えたんですかぁ?」
「そうよ。分かるぅ~」
おどけた口調で言葉を返す有明だが、その表情は一つも笑ってはおらず、その話題には二度と触れてくれるなと、その目は強く語っていた。
長い間星林檎が大事に取っておいた鬘。友人の危機に、嬉々として彼が差し出した鬘。それは彼が若い頃に憧れていた、ビートルズを模したマッシュルームカットの鬘であった。




