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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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踊る満員電車 ~有明吾朗の悲劇~

 昭和の名横綱だった有明吾朗(ありあけごろう)は現在、テレビの大相撲解説者として人気を博している。歯に衣着せぬ物言いと舌鋒(ぜっぽう)鋭い意見は、伝統と文化を重んじる大相撲協会にとっては耳が痛いところではあるが、貴重な御意見番として重用(ちょうよう)されている。しかし何より彼の人気を後押ししているのは、そのルックスだった。

 浅黒く日焼けした精悍な顔つきと肉体は、とても70才を過ぎた老人とは思えぬものであり、それが仕立ての良い和装にとても映えると評判になっている。中でも一番に女性ファンの心を掴んでいるのは、そのロマンスグレーの渋い髪型だった。

 元力士というのは、どうしても現役時代に結っていた髷の印象が強く残り、引退後の髪型にはどこか違和感を覚えてしまうものだ。だが有明に関して言えば、現役時代の髷姿が想像できぬほど、嫌味にならない程度に自然な感じで後ろへ撫で付けたショートヘアーが、その浅黒く精悍な顔とマッチしているのである。

 大相撲中継の視聴率の高さは、その一因には有明の存在があるのではないのかと一部の者の間では囁かれるほどで、往年の有明を知る者が減った現在に至っても、大相撲界にとって有明吾朗は欠かすことのできない存在となっていた。

 その有明がこの日、75年の人生で初めてと言っても過言ではないような窮地に追い込まれようとしている。

 その朝、今や公然の秘密と化している愛人宅から帰宅した有明は、普段はポストに隠してある合鍵が見当たらず、玄関ドアの前でなす術もなく佇んでいた。持っていたスマホで妻の携帯へかけてみるが繋がらず、家の電話にかけてみても、玄関越しに聞こえてくるベルの音が、いつまでも空しく鳴り続けるばかりであった。

 日頃は奥ゆかしさの手本のようだと周囲から評判の妻だが、ひと度機嫌を損ねると手がつけられないほどの頑固者であることを有明は知っている。どうやら先日、夕飯のおかずの味付けについて有明と激しく口論になったことを、未だに根に持っているようだ。

「おーい、俺だ。開けてくれ~」

 勝手口に回った有明は、隣近所の体裁もあり、遠慮がちな声でそう言いながら戸を叩いてみたものの、一向に梨の(つぶて)である。

 ああ、いかん。こりゃ本格的に(へそ)を曲げてるな。そう感じた有明は、何か違う手を講じる必要に迫られた。

 九月の第二月曜日のこの日は、両国国技館で始まった大相撲秋場所の二日目だった。そして有明はこの日、そのゲスト解説者を務めることになっているのだ。

 一つ冷静になろうと改めて己れの恰好を顧みた。グレーのスウェットの上下にスニーカーを履き、持ち物といえばいくばくかの小銭の入った小銭入れと、最近使い始めた高齢者向けのスマホがポケットに入っているだけだ。まるで絵に描いた"休日のお父さん"を、そのまま具現したかのような己れの出で立ちの、その余りあるラフさ加減に我ながら呆れ返り、もしもこんな恰好のまま両国へと出向いたらどんな騒ぎになるだろうかと想像し、目眩を起こして家の壁に両手を突いて項垂れた。

 ああ……、もうこうなったら、しょうがない。頼れるのはあの男だけだ……。

 頭に浮かんだのは、昔からの力士仲間だった一人の男だ。お互いビートルズが好きで馬が合い、今でも年に一、二度は、二人でお酒を飲みに行く間柄になっている。

 あいつだったら和服も持っているはずだから、それを貸して貰おう。

 藁にもすがる思いで電話をすると、案の定、快く和服一式貸してくれることとなり、ああ、やっぱり持つべきものは友だなと、有明は思い付く限りの感謝の言葉を並べ立て、彼の家へと向かうことにした。

 現役時代は星林檎(ほしりんご)という四股名で活躍したその男のことを、有明は今でも親しみを込めて「林檎ちゃん」と呼ぶ。しかしその星林檎の自宅へ行くためには、どうしても山手線に乗る必要があった。

 自宅から最寄りの駅までは、歩いて10分ほどで着いた。

 午前8時、駅前のロータリーはスーツ姿の通勤客でごった返していた。そんな中、この有明吾朗がたった一人、上下とも草臥(くたび)れたグレーのスウェット姿では、さながら戦場の最前線に丸腰のまま飛び込んで行くようなものだ。

「よしっ!」

 せめてもと駅前のコンビニでマスクを購入した有明は、そんな掛け声で自身を鼓舞し、駅舎へと突入していった。

 一人で山手線を利用したことなど、ここ何十年も記憶にはない。スイカだのパスモだのの何たるかも分からないアナログ人間の有明は、あたふたと慣れない手つきで切符を購入した。見よう見まねで自動改札も何とかクリアすると、ほっとする間もなく後から後から押し寄せるスーツの人波に追い立てられ、あれよあれよと駅のホームへと吸い込まれていった。

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