負けて楽になれ! その1
「なあ、千大王よ。お前は力士の平均寿命が、日本人の平均より短いことは知っているか?」
「は、はあ……」
いきなり平均寿命などという、思い掛けない言葉が親方の口から出たので、千大王は目を見開いた。「何となく聞いたことはありますが……」
「それじゃあ、その理由は分かるか?」
「それはまあ、肥満が原因で、いろんな生活習慣病になったり……。それから、厳し過ぎる稽古が原因で、身体を壊したりということもあるんじゃないかと……。あ、すいません。親方が日頃、自分たちの体調を随分気にかけてくれているのは知っているんですが……」
「気にするな、千大王。その通りなんだよ。だけどな――」
そう言うと友沼親方は、次のような話をした。
ある統計によれば、力士の平均寿命は、日本人の平均より15歳ほども短いとされている。それはとりもなおさず、入門時には平均80キロほどだった体重が、幕内ともなれば平均150キロを越えるほどにもなる。この、体重の急激な増加が、力士が身体を壊す一番の原因だとされている。それに加えて、一般の人であれば凶器ともなる鋼のような肉体がぶつかり合う激しい稽古の応酬だ。少なからず肉体は、寿命をすり減らすほどのダメージを受けるだろう。
「しかし俺は、力士の平均寿命を縮める一番の原因は、実は精神的なプレッシャーじゃないかと思っているんだ」
「せ、精神的なプレッシャー……、ですか?」
「そうだ。そしてそれは、千大王。お前が今まさに、感じているプレッシャーなんだよ」
「はあ……」と千大王は、何だか狐につままれているような気持ちになり、「でもそれが寿命を縮めることになるとは、いくら何でも大げさ過ぎます」と笑った。
「だがな」と、あくまで友沼親方は真剣な表情を崩さず、「もしお前がこの先も順調に出世したとすると、その先に感じるプレッシャーは、今の何倍にも感じられるものだぞ」
「はあ……」
今のままでも十分辛いのに、その何倍ものプレッシャーだと言われ、千大王は少し顔が強張るのを感じた。
しかしそんな千大王に対して、友沼親方の話は容赦なく続く。
「もしお前が明日の取組に勝ち、十両に昇進したとすると、お前の世界は一気に変わることになるぞ」
「それは一体、どういう風に?」
「まずお前は、周りの人たちから『関取』と呼ばれるようになり、身の回りの世話は付け人がするようになる。相撲協会からは、かなりの額の給料や賞与が貰えるし、部屋だって大部屋から個室に移ることになる。本場所の土俵に上がる際には、今までみたいなちょん髷ではなく、大銀杏を結うことになる。締め込みだって、あんなくたびれた稽古廻しではなく、博多織を使った豪華なものを身に付けることになる。それから、土俵入りに使う化粧廻しも用意しないとならないが、確か、村の後援会でお前に贈ろうという話がもう出ているんだったな。あ、そうそう。後援会といえば、お前の後援会を作りたいという話が、すでにいくつかきているぞ」
友沼親方の話をそこまで聞いた千大王は、十両に昇進する名誉や実益よりも、そんな大役が自分に務まるだろうかという不安ばかりが膨れ上がり、暗澹たる気持ちになった。
「はあ……」
思わず深いため息を吐いた千大王だが、親方の話はまだまだ続く。
「それから十両に昇進すると、次に待っているのは陥落の恐怖だ」
「陥落の、恐怖……?」
「ああ、そうだ」と友沼親方は更なる厳しい口調で、「もし、明日の取組でお前が勝ち十両昇進が決まると、人の良い村の連中のことだ、盛大な祝賀会を開いてくれるに違いない」
「それはまあ、何となく想像がつきますね」
「そうだろう。それに加えて、新しい締め込みや化粧廻しといったものまで、良いものを用意してくれるに違いない。それから、確かお前の出身は東京の練馬だったよな」
「……はい」
千大王には話の先行きが何となく分かってきて、更に気持ちが沈み込んだ。
「練馬からは、しばらく関取は誕生していなかったんじゃないか?だとすれば、大いに盛り上がることは間違いない。区役所の前には、やっぱり横断幕なんかが飾られるかも知れんな。更にはお前の出身校である千両大学だ。あそこからは、およそ20年前に元大関の武合双が引退して以来、関取が出ていないだろう。お前のことを応援しようというOBの連中が、それこそ手ぐすね引いて待っているに違いない」
武合双といえば、平成の大横綱と言われた若貴城を苦しめた大関として一時代を築いたスーパースターであり、千大王にとっては雲の上の人物だ。そんな力士と自分が同列で扱われる不幸を千大王は呪い、がっくりと肩を落とした。
「そんな大フィーバーが吹き荒れる中、せっかく十両に昇進したお前は、簡単に十両から陥落するわけにはいかないよな」
「ええ。ですから自分は、死に物狂いで頑張ります」
「そこだ!」
そう言って友沼親方は、人差し指を千大王の顔に突き付けた。
「えっ?」
普段は温厚な友沼親方の、まるで不意討ちのような激しい口調に、千大王は胡座をかいたままのけ反っていた。
「分かってないようだな、千大王」
そう言うと友沼親方は、座布団からずり落ちたままの千大王を座り直らせてから、更に話を続けた。
「いいか、もし明日お前が勝ち、ぎりぎりの成績で十両に昇進したとすると、次の九州場所では確実に十両を維持するために、お前は勝ち越さなければならない。死に物狂いで頑張れば大丈夫、そうお前は言うかも知れないが、新十両になったお前には、いろいろと用意しなきゃならない物もあるし、覚えなきゃならない仕来たりなんかもある。通常の場所前のように、落ち着いて稽古に集中できるとは思うな」
「はあ……」
「それにだ。十両と幕下とでは、その実力差は番付以上にあると思え。まあ俺は、この部屋の稽古は〈質〉という点では他の部屋に負けていないと自負しているが、しかしな、俺はさっきも言ったように、厳し過ぎる稽古が力士の寿命を縮める原因の一つだと思っているから、どうしてもお前たちに対して甘くなりがちなんだ。まあそのことは、俺の指導方針だから良いんだが……。とにかくそういうわけで、俺は千大王、お前が15日間ぶっ通しで一場所乗り切るだけの体力を付けたとは思っていないんだ。もしこのままお前が十両に昇進すれば、来場所は、上手くいっても5勝止まりだと、そう踏んでいる」
「はあ、そうですか……」
親方の言葉に、千大王はみるみる自信を失っていった。
「まあ、そう落ち込むな、千大王。十両はまた、圧倒的な力を付けてから狙えば良い。お前には十両は、時期尚早だったというだけのことだ。とにかく明日は、みんなの期待に応えようとか、勝たなきゃ申し訳ないとか、余計なことは一切考えずに、潔く負けてこい」
「いや、でもやっぱり、わざと負けるというのはまずいのでは……」
「ええい、つべこべ言うな、千大王!お前の顔には死相が表れている。これは親方命令だ。とにかく、何だ、その、お前の背後にどっしりと乗っかった、その悪霊のようなものを振り払うためにも、明日の取組は負けろ。負けて楽になれ!」
十両という地位に全く色気を感じないかと言われれば嘘になるが、親方命令とまで言われては従うしかあるまい。そう開き直ってみると千大王は、さっきまで感じていた肩の重さが、ふっと楽になったような気がした。自分ではそんなに意識していないつもりでも、やっぱり相当なプレッシャーだったのだと、改めて実感した。
「分かりました。明日の取組は潔く負けてきます」
「そうか、分かってくれたか。よし、それじゃあ、明日に備えて寝るとするか」
少し元気を取り戻した千大王の顔を見て、友沼親方は何かを振り払うかのように、ポンと両膝を打ち、勢い良く立ち上がった。
「今夜は有り難うございました」
そう律儀に礼を言って部屋を後にする千大王を見送りながら友沼親方が思い出していたのは、歯を食いしばりながら地獄のような稽古に絶え、幕内から三役、大関へと昇り詰めていった、かつて現役時代に同じ部屋に所属していた先輩力士の姿だった。しかし友沼親方が一番尊敬していたその先輩は、引退してから数年も経たぬうちに呆気なく心臓発作で死んでしまった。
「死に物狂いでやるさ――」
それはその先輩力士が、まるで人生に達観した僧侶のような眼差しで、ことあるごとに口にしていた言葉だった。