帰省 その2
散歩と称して外出した平和はしかし、特に行きたい場所があった訳ではない。自分が生まれ育ったこの町を、最近着慣れたお気に入りの浴衣で闊歩してみたくなっただけなのだ。とはいえこの日は猛暑日で、こんな何もない田舎の住宅地をのんびり歩いているのは平和ぐらいのものだった。容赦ない日差しがアスファルトを照りつけ、自分が歩く下駄の音だけが、カランコロンと乾いた音を立てている。
思えば中学の三年間は、同級生の目を恐れてこんな風にぶらぶらと町を出歩くことさえできなかった。それがまだほんの序ノ口とはいえ、曲がりなりにも大相撲の世界で初勝利をなしとげたことで、自分への自信も湧き、人並みの生活も送れるようになったのだと感じた。
平和はまるで故郷に凱旋でもしているような気持ちになり、背筋を伸ばしてシャンとなって歩いた。心なしか、部活もせずにだらだらと過ごした中学時代と比べると、汗もそれほどかかなくなり、夏の暑さにも強くなったような気がする。すると、ちょっと自分がいい男になったような心持ちにもなり、いつか自分にも襁褓山さんのように、素敵な恋人ができるかな、などと夢想しながら歩き続けた。
気付くと平和は住宅地を抜け、いつしか川沿いの土手を歩いていた。どこまでも続く真っ直ぐなその道では、どうやら最近草刈りが行われたようで、青臭い草の匂いが平和の鼻腔を強く刺激した。どこまでも着いて来るしつこい草いきれはこの日の暑さを助長するようで、さすがにそろそろ引き返そうかと思い始めた矢先だった。
土手の向こうから3人組の若い男が歩いて来る。いじめられっ子だった平和の敏感センサーがいち早く危険を察知した。しかし、早く引き返せと脳から指令が下った時にはもう、手遅れとなっていた。
躊躇して立ち止まった平和の元へ、遠くから威圧的な声が飛んできた。
「よお、お前、大関じゃねえか」
「た……、竹澤君……」
そう、それは平和がいじめられる原因を作った竹澤という少年だった。そして竹澤と並んで歩いている二人の少年も、一緒になっていじめ祭りに参加していた同級生だった。
平和の凱旋気分は瞬時にバブルとなって弾け飛び、弾け散った泡がパラパラと地上へと落下した。あっという間に、平和の心身はいじめられっ子だった中学時代へと逆戻りしていた。
「お前、相撲部屋に入門したんだってなあ。どこの部屋だ?」
後退りしかけた平和に逃げる隙を与えず、早足でやって来た竹澤が開口一番そう言った。久しぶりの再会に旧交を温める気など毛頭ないかのような3人の少年は、浴衣に下駄履きという平和の恰好をニヤニヤと笑いながら睥睨した。
「……はい。……友沼部屋です」
「何? ホモ沼部屋?」
消え入りそうな平和の声に、竹澤は聞こえねえよと言うように、耳の後ろに手を当てて訊き返した。
「いいえ。……友沼部屋」
「友沼部屋? 聞いたことねえなあ」
そう言うと竹澤は、横に控える二人の少年の方を向いたが、二人もやはり知らないようで、下卑た笑いを浮かべながら、手を横に振っている。
「まあ、いいや。それでお前の番付は、今、何なんだよ? 大関か?」
「ま、まさか大関だなんて……。僕はまだ、序ノ口です」
「序ノ口ぃ~! な~んだ、そりゃ? そんな番付があるのかよ。十両の下か?」
「いいえ、十両の下は幕下で、幕下の下が三段目で、三段目の下は序二段で、序ノ口は、その序二段の下です……」
「何だそりゃ? そんなにあるのかよ? せっかく応援してやろうと思ったのに、それじゃあ、テレビ中継にも出てこれねえじゃねーか」
と竹澤は、全く応援する気もない口調でそう言った。
「そんな、僕なんかがテレビだなんて……」
俯きながら言う平和に、竹澤の目がニヤリと光る。
「お前が早く出世できるように、今ここで、俺が鍛えてやるよ」
「えっ!」
ハッとして顔を上げた平和に、竹澤は左足を一歩前に踏み出し、右手を肩の高さに上げる、いわゆる柔道の"構え"を取った。
「いいぞ。どこからでもかかってこい!」
余裕のある声でそう話す竹澤は、確かに身長も体重も平和よりもあり、弱腰になっている今の平和と比べれば、格段に強そうに見える。
「そ、そんな……。お相撲さんが一般の人と喧嘩なんかしちゃ――」
「喧嘩じゃねーよ! 鍛えてやるって言ってんだよっ!」
「だ、だけど……、柔道と相撲は、全然違うものだし……」
そう言って平和がチラッと後ろに目をやると、残りの二人の少年が退路を塞ぐように、素早く後ろへと回り込んだ。
「俺がお前なんかに怪我をさせられるとでも思ってんのかよっ!」
「そうじゃない。そうじゃないけど……」
「早くテレビでお前の活躍する姿が見てえんだよ。いいだろっ!」
「で、でも、こんなことをしたって強くなんかなれないし……」
そう、いつだっていじめる側の威圧的で理不尽な屁理屈ばかりがまかり通り、いじめられる側の極めて真っ当なか細い声は抹殺される。
「俺たちだって、大関がテレビで活躍する姿、早く見たいッス」
「そうですよ、竹澤さん。どうぞ思い存分、大関を鍛えてやって下さい」
そしていつの間にか周りにいる愚か者たちは傍観者でいることすら放棄して、根も葉もない確信犯の声で、いじめる者の側へとみっともない薄ら笑いを浮かべながらへばり付いている。
「それじゃあ、こっちから行くぞっ!」
言うが早いか、竹澤は左手を力強く前に伸ばし、平和の浴衣の袖口を掴もうとした。しかしその動きは、毎日プロの力士たちに揉まれて真面目に稽古に取り組んでいる平和にしてみれば、まるでスローモーションのように見えた。
この時の平和を突き動かしたのは、そんな3年間の積もりに積もった思いなどではなく、毎日無心で稽古に取り組んだことからくる反射神経だった。瞬間的に右手を引いて下に沈み込むように腰を屈めた平和は、素早く両足を前に踏み出し、左から前褌を取りに行くいつもの動きで竹澤の身体に密着しようとしたが、すんでのところで平常心を取り戻し、ハッとなって動きを止めた。だが竹澤は、まるで竜巻のような動きで突如として目の前に現れた、その平和の迫力に仰天し、だらしなく「うわっ!」と叫んで尻餅をついていた。
「ご……、ごめん……」
あんぐりと口を開いたまま言葉もない竹澤に向かって平和が頭を下げていると、後ろの二人が怒鳴り声を上げた。
「この野郎!」
「よくもやってくれたな!」
もちろんそれは、けしかけた側からの謂れのない糾弾である。平和は竹澤の身体に触れてさえいないのだ。
「いや、僕は、別に……」
しどろもどろになりながら言いよどんでいると、尻餅をついたままの竹澤が二人に言った。
「松澤、梅澤、止めとけ」
そう、今の平和の動きを見た竹澤は気付いていたのだ。柔道どころか、中学時代に何の運動部にも所属していなかったこの二人が、もはや平和の敵ではないことを。だが粋がる二人は、ドラマの登場人物にでもなったような高揚感に押され、鼻息も荒く芝居がかった口調で尚も言い放つ。
「竹澤さんの仇は、俺たちが討ちます」
「やられたら、やり返す……」
「倍返しだっ!」
最後にそう声を揃えた二人は、同時に平和へと襲いかかった。だが竹澤が危惧した通り、モーションばかり大きくて隙だらけの二人の攻撃を難なく交わした平和は、二人の背後へと回り込んだ。
突然目の前から敵が消え失せ、慌てて背後を振り返ると、二人はそこに、迫りくる平和の大きな顔を見て取った。
「うひゃあ!」
ド派手な叫び声を上げながら、立ち上がりかけていた竹澤も巻き込んで、3人はもつれるように地面へと転がった。すぐに立ち上がろうと慌てた3人は、互いの手足が絡み合い、「うわっ!」と叫び声を上げて再びもつれ合いながら転がった。
「ご、ごめんね……」
謝りながら平和は、3人が着ているラメ入りのシャツに、松、竹、梅と、それぞれの名字から取った一字を模した図柄がプリントされているのを見て取った。それが格好良いのかウケを狙ったものなのかは分からないが、しかしどうやらそれは、これから繁華街にでも繰り出そうとしている3人の勝負服であることは間違いなかった。
そんな高価そうなお洒落なシャツが、まるで小学生の体操着のように汗と土埃とで見る影もなく汚れてしまっている。恐ろしくなった平和は、再び3人が態勢を立て直す前にと急いで下駄を脱ぐと、両手にそれをぶら下げた。
そして松竹梅の3人が漸く立ち上がり、「あ~あ」と意気消沈しながら汚れてしまったシャツの埃を落としていると、そこには手に下駄をぶら下げた平和が、遥か先を必死に駆けて行く姿があった。
「ごめんね~」
遥か遠くから振り返った平和が、手を振りながら大声で呼び掛けてきた。その声は、中学時代は聞いたこともない溌剌としたものだった。
「あいつのあんな生き生きとした姿、初めて見るな……」
追いかける気力もなくなり、ポツリとそう洩らした竹澤は、問い掛けるように二人の方を向いた。
「なあ、俺たちは、あいつに感謝しなきゃいけないのかも知れないぞ」
「えっ?」
「何で?」
お気に入りのシャツを汚され、その相手を恨みこそすれ、感謝するとは一体どういうことかと、二人は疑問の声を上げた。
「俺たちは3年間、深く考えもせずに、ただ面白がってあいつのことをいじめていたよな……。まあ、その一番の張本人は俺なんだが……」
「まあ、それは……」
「俺たちだって……」
曖昧な顔で苦笑する二人に、尚も竹澤は続ける。
「あいつは……、大関は、本当はもっと、普通にスゲーいい奴だったんじゃねーか? 多分、普通にもっと、充実した3年間を過ごせるような奴だったんだよ。そのあいつの、楽しいはずの3年間を、俺が……、俺たちが……、地獄絵図に塗り替えた……。その挙げ句、あいつは普通の高校に進学もできなくなったんだ。もしもそのまま引きこもりにでもなって、もしかして自殺なんかされてたら、俺たちは一生、あいつの十字架を背負って生きていかなければならなかったんだ……」
「それはちょっと、考え過ぎでしょ」
「そうッスよ。竹澤さん」
「でもあいつは、先生に言いつけたりして、いじめを止めさせる方法だってあったはずなんだ。何でそれをやらなかったんだ?」
「ええと、それは……」
「ただ単に、報復が怖かっただけなんじゃないッスか……?」
ハッとなった竹澤は、目を見開いた。
「もしかして――?」
そう、あいつは、知っていたのかもしれない。あいつをいじめの対象から外した場合、その、あいつから逸れた分のエネルギーが、他の誰かに向かうことを。そんな運の悪い誰かが、いじめの標的になることから守るために、あいつは3年間も自分が犠牲となり、甘んじていじめを受け続けた……?
「た、竹澤さん……?」
「どうしたんスか……?」
怖い顔で黙り込む竹澤を心配して、二人は顔を覗き込むように訊いてきた。
日本のお盆休みと言えば、終戦記念日だ。今の日本の平和があるのも、戦争による尊い犠牲があったからこそ。この時期、報道番組で毎年耳にする言葉の連想から、そんなことを思ったのかも知れない。さすがにそこまでは俺の考え過ぎだろうと、すっかりしんみりしてしまった空気を取りなすように、ことさら明るい声を竹澤は出した。
「ところで、あいつの四股名って、何て言うんだ?」
「あれ……? 何でしたっけ?」
「そう言えば、聞かなかったッスねえ」
「まさか『大関』の ままじゃ、都合が悪いだろうし、『秀男』だと何だか、呼び出しみたいだし……。まっ、いいか。とにかくあいつが、ああやって相撲で頑張ってくれているお陰で、俺たちもこうして、何の気兼ねなくナンパにうつつを抜かしていられるって訳だ」
「ええ、そうッスよ」
「それじゃ、俺たちもそろそろ、うつつを抜かしに行きますか?」
「そうだなー。パーッと、やっか!」
「やりましょー!」
「オーッ!」
そして松竹梅の3人は、汚れてしまった服の背中を互いに払い落としながら、駅へと続く道を再び歩き始めた。




