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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
27/68

それぞれの名古屋場所 千秋楽 その3

 その結果いかんによっては自分も大相撲界にいられなくなると覚悟していた千大王だが、増田男の腋臭スペシャルが不発に終わったことを知り、取り敢えずホッとした。

「あんな相撲は二度とやっちゃダメだよ」

 そうやんわり(とが)めようと思っていたが、あられもない負け方でガックリと肩を落とし、逃げるように花道を下がって来た増田男を叱るのも憚られた。

「残念だったね」

 結局、口から出たのはそんな慰めの言葉だった。

 いっそのこと、大相撲の反則規定にでもあれば良いのに、と千大王は考える。"自らの体臭で対戦相手を昏倒させてはならん"と。

 下らない妄想に思わず顔が緩んでしまった千大王はいかんいかんと首を振り、頬を叩いて自らを叱咤(しった)した。

「集中集中!」

 東幕内17枚目。格段優勝者の表彰式が終われば、すぐに千大王の取組の番となる。

 千大王は幕内に初めて昇進した今場所、ギリギリの幕尻でここまで7勝7敗と五分の成績だった。しかも勝ち越しをかけた千秋楽の一番、何の因果か対戦相手は先場所、千大王との対戦で負けて十両に陥落した天城野(あまぎの)部屋の白犀(しろさい)となっていた。そして十両筆頭の白犀は、やはりここまで7勝7敗と五分の成績だった。

 お互い共に勝ち越しをかけたこの一番は、幕内と十両の入れ替え戦的なものとなる。奇しくもそれは、先場所とは逆の立場での対戦だった。

 土俵に上がった白犀は、この因縁めいた取組に落ち窪んだ奥の目を鈍く光らせ、千大王を鋭く睨む。元々が土俵上で闘志を剥き出しにするタイプだったのが、立場が入れ替わりチャレンジャーとなったことで、その度合いは先場所より更に顕著となっている。

 早くスタートしたくてウズウズし、ゲート内で暴れまくる競走馬のような白犀に対し、千大王の仕切りは対照的に淡々とマイペースだ。かといってそれは、勝利への執念が希薄なわけでは、勿論ない。

 同部屋決戦の末、三段目の優勝者となった襁褓山に加え、序二段の将威(まさい)も5勝2敗の好成績で来場所は三段目に昇格となる公算が高い。更に負け越しこそしたが、序ノ口デビューを果たした平和も2勝を上げた。この、友沼部屋創設以来の成果を上げた今場所、自分が負けて十両降格となり、その祝賀ムードをぶち壊しにする訳にはいかなかった。

 淡々と仕切りを続けながらも、千大王の頭の中には先場所の勝利がチラチラと(よぎ)り、迷いを与えている。

 体力に物を言わせて圧倒する突き押し相撲の白犀は、千大王の最も苦手とするタイプの力士だった。友沼親方のアドバイスもあり、先場所は立合いでのちょっとした駆け引きも使い、何とか勝利を手にすることが出来た。しかしそんな重量級力士ばかりが顔を連ねる幕内での取組に、場所前、千大王は友沼親方と何度も立合いについて話し合いをした。その結果、千大王はこれまで通り、先に両手を突いて待つ立合いで臨むことになった。

 先に両手を突いて待つ立合い。それは立つタイミングを完全に相手の呼吸に合わせなければならず、その分立合いのアドバンテージは期待出来ない。潔いだとか堂々としただとか、そんな言葉で誉められもする立合いだが、それは関係ないと千大王は言った。自分にはこれが一番取りやすく、しっくりくる立合いなので、これが良いという結論に至った胸の内を語り、友沼親方もそれを了承した。

「恐らく、最初は幕内の壁に跳ね返されるだろうが、まあ、焦らずにやっていこう」

 最後にそう言って千大王を送り出した友沼親方だが、その予想に反し、千秋楽まで7勝7敗の五分の成績は上出来と言えた。

 7勝7敗。勝ち越すのと負け越すのとでは、それこそ天と地の違いだ。勝てば天国負ければ地獄、先場所から二ヶ月、その間にやってきたことが全て無駄になる。

 う~ん、この一番に勝てば、この一番に勝てば……。

 ジリジリとした勝利への渇望が、千大王の頭をムクムクと支配していく。立合いに迷いが生じ、気が付いたら身体が勝手に変化していた、などというのも、このような精神状態の時に起こり得るものだ。

 ぷぅ~ん……。

 その時、土俵上をしぶとく徘徊し続けた増田男の最後の残り香が、千大王の鼻孔をくすぐった。

 ハッ!

 もしかしたら、残り香と感じたのは千大王の気のせいだったのかも知れない。しかしそれは、欲に目が眩んで情けない相撲で負けた増田男が、身を持って教えてくれた教訓なのかも知れないと、この時の千大王は感じた。

 そうだ! やっぱり、ブレる訳にはいかんっ!

 最後の仕切り、千大王はブルブルと首を振って唇を結ぶと、最後の塩を掴んだ。

 サァーッ。

 いつもより若干多目に掴んだ塩が綺麗な放物線を描き、土俵へと散った。その様を平静を取り戻した穏やかな目で見届けた千大王が、右足から土俵に踏み出す。

 仕切り線の後ろ、先に腰を下ろした千大王が両手を突いて顔を上げると、そこで白犀と目が合った。その目がこう語りかけてくる。

 "本当にその立合いで良いのか?"

 口元に不敵な笑みを浮かべた白犀が(おもむろ)に腰を下ろすと、今度はその重たいお尻が上へと持ち上がっていく。それに伴い重心は、前へ前へとずれていく。その反動を利用して、軽く握った両こぶしをチョンチョンと土俵に突くと白犀は、まるで旅客機が離陸する時のように、勢いをつけて前方へと立ち上がった。

 バシーン!

 両者がぶつかる音が館内に響く。立合いは五分と五分だ。だが圧倒的な体格差で、千大王の身体は土俵際まで後退した。

 命綱となった右の前褌(まえみつ)に手を掛けたまま、千大王の身体はくの字に反り返る。下から押し上げる強烈な突きに、千大王は右手を諦め、土俵伝いに左へ左へと回り込む。だがそこへ、素早く向きを変えた白犀の強烈な二の矢三の矢が飛んでくる。そして千大王の右の膝が大きく持ち上がり、危ういバランスで何とか持ちこたえようとしたところにとどめの両手(もろて)突きが入ると、千大王の身体はあっけなく土俵下へと転がり落ちていった。

 そう、それは完璧な千大王の負け相撲だった。

 転落した千大王の脳裏に、友沼部屋の一行、それから後援会や久須村の馴染みの面々、そしてこの名古屋場所でお世話になった開眼寺の住職を始めとする有志の方々など、様々な人の落胆する顔が浮かんでは消えていった。

 脱力感に(さいな)まれ、すぐには立ち上がることさえ出来ない千大王の頭上に、まるで雲の切れ間から垂れ下がる一本の蜘蛛の糸のような逞しい右腕が差し出された。やっとのことで腰を上げた千大王がその汗ばんだ掌を掴むと、千大王の身体は軽々と土俵上へ引き上げられた。

「どうも……」

 頭を下げて小さく礼を言うと、白犀もゼエゼエと荒い息を吐き出しながら、その合間合間に言葉をつないだ。

「また来場所……、今度はもう、こんな入れ替え戦ではなく……」

「会いましょう」

 顔を上げ、そう力強く千大王が答えると、まるでその会話を聞いていたかのような温かい拍手が、館内のあちこちから沸き起こった。


 それから一週間が過ぎ、場所後の打ち上げパーティーやその他諸々の行事を終えた友沼部屋の一行がいつもの久須村へと戻ると、村役場には『襁褓山 三段目優勝おめでとう!』の垂れ幕が掲げられ、夜になると祝賀の花火が打ち上げられた。

 駅前の〈ちゃんこ料理 久須の友〉で行われた宴席では、負け越した千大王のことを心配したり咎めたりする者は誰もおらず、和やかな雰囲気のまま夜は更けていった。

 そして三段目優勝の襁褓山は挨拶を述べるスピーチにおいて、関取になったら結婚すると婚約を発表した。

 部屋の者でさえ知らなかったサプライズに、「おーっ!」というどよめきの後、嵐のような祝福の声が巻き起こった。

「花嫁は来ておらんのか?」

 割れんばかりの拍手喝采の中、誰かが発したその声に向き直った襁褓山は、「実は来ております」との更なるサプライズ。店内は再びどよめいた。

 ヒューヒューと冷やかしの口笛に促され、しかし現れたのは花嫁衣装に扮した日の出山。福笑いのような化粧を施し、嫌がる襁褓山に抱きついた日の出山は、既にその目に拒絶反応が現れかけた襁褓山の顔を両手で無理矢理挟み込むと、その大袈裟に口紅を塗りたくった分厚いタラコ唇でブチューとやろうとした。

「……調子に乗るなっ! 反吐が出るわっ!」

 どうやら悪ノリし過ぎたらしい日の出山に、反吐は襁褓山の禁句であることも忘れてそう言うと、渾身の張り手をお見舞いした。

「あなた……、酷いわ……」

 弾け飛ばされた日の出山は、そう言いながらよよとばかりに泣き崩れ、宴席は爆笑の渦に包まれた。

 笑い過ぎて涙を流しながら千大王は、ああ、やっぱり久須村は居心地が良いなあと、しみじみ感じた。

 しかし関取の千大王は、数日後には夏期巡業の長期ロードに出発しなければならず、久須村でのんびりしている暇はない。力士たちの暑い夏は、まだまだ続くのであった。

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