表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
26/68

それぞれの名古屋場所 千秋楽 その2

 十両以下の優勝決定戦は千秋楽の幕内の取組が始まる、その直前に行われる。満員御礼の垂れ幕が下がったこの日の愛知県体育館は攻防のある熱戦が多く、その頃には既に人いきれと歓声とで大盛況となっていた。

 三段目の優勝決定戦、呼び出しによりその名を告げられた襁褓山と増田男の二人が土俵に上がると、満員に膨れ上がった館内からは、「おーっ!」というどよめき混じりの歓声と、建物を揺るがすほどの大きな拍手が巻き起こった。

 経験したこともない晴れの舞台の雰囲気に飲まれそうになった二人だが、それは行司にとっても同じこと。袴の裾を上げて裸足で土俵に上がった三段目格の行司は、通常より幾分頬を紅潮させた顔で、強く軍配を握り締めていた。

 同部屋対決となる優勝決定戦、どっちが勝ってもめでたしめでたしとなるため、そこには多少なりとも融和的な雰囲気が入り込むものである。しかし取組前から世間を騒がすほどの注目を浴びていたこの日の二人には、そんな雰囲気は微塵もない。ことに目の前にぶら下がった30万円に全身全霊と言わんばかりの執念を燃やす増田男は、その目に不退転の決意を宿していた――。


 千秋楽のこの日、優勝決定戦に臨むため東の控え室に入った増田男は、入念な準備運動で身体を動かし続けた。それは取組前の準備運動というにはあまりにも過剰なほどで、まるで何かに取り憑かれたかのように、一心不乱に打ち込んだ。四股やテッポウでは飽き足らず、腕立てに腹筋、スクワットと、(はた)で見ている力士が心配するほど、あらん限りの力で身体を動かし続けた。

 そのため控え室を後にする頃になると、まるで取組を終えた直後のように、ゼエゼエと激しく喘ぎながら、肩を上下させて荒い息を吐き出していた。

 過剰なまでの準備運動で、もはや疲労困憊(ひろうこんぱい)といった状態の増田男だが、土俵に上がっても尚、その身体からはポタポタ、ポタポタと、大粒の汗が滴り落ち続けていた。額から流れる汗は頬を伝い、顎の下へと滑り落ちていく。手足や腹、胸、背中と、ありとあらゆる汗腺から汗は吹き出し続け、そしてもちろん、汗は腋の下からも生じ続けた。

 増田男の腋の下、そこは同じ相撲取りであってもあまり(つぶさ)には目の当たりにしたくないおぞましい箇所であった。日々の激しい稽古で擦り切れ、そこには絶望的な籠城戦(ろうじょうせん)の末、奇跡的に生き永らえた落武者のように、生え残った何本かの腋毛がチロチロと(わび)し気に揺れていた。そしてこの増田男の腋の下に存在するアポクリン汗腺から分泌される汗と皮脂腺から分泌される皮脂とが混ざり合い、それらが常在細菌のエサとなって分解、代謝されることで、この男の腋の下からおよそこの世のものとは思えない腐った玉葱臭を、あろうことかこの優勝決定戦という一世一代の晴れの舞台の瞬間にも、せっせせっせと排出し続けているのであった。

 その臭いには、ショウジョウ蝿は目を回しヤブ蚊は気絶しクロゴキブリは尻尾を巻いて逃げ出すと噂されるほどの増田男の腋臭。そう、まさにこれこそが控え室で増田男が執拗に身体を動かし続けた理由なのであった。

 土俵上で仕切りを行いながら増田男が思い浮かべていたのは、一ヶ月ほど前の朝稽古での出来事だった。その時襁褓山は、朝のデオドラントを怠った増田男の体当たりを食らい、土俵に見立てた神社の稽古場で、胃の中の物を盛大に吐き出しているのだ。

 どっちが勝ってもめでたしめでたしの同部屋決戦。ともするとこの対決には何らかの思惑が働き、ガチンコ勝負とはならないのではないかと危惧される。そんな一戦において増田男は、襁褓山は強烈な腋臭が苦手だと踏んで作戦を立てた。

 先ずは立合い。増田男は思いっきり張り手にいく。あろうことか部屋の後輩から繰り出されるこの挑発とも取れる行為に、襁褓山は冷静さを失う。逆上して襲いかかる襁褓山に後退した増田男は俵に足を掛け、今度は逆転の首投げを仕掛ける。伸ばした右手を相手の首に巻き付け、腋の下を出来るだけ襁褓山の鼻先に密着させる。それを発する本人でさえもむせ返りそうになる強烈腋臭に怯み、死後硬直のように動けなくなった襁褓山を、あとは土俵の外に押し出すだけでいい。

 と、これが増田男が考えた、この取組におけるシナリオの全貌だった。


 こ、これが大相撲というものか……!

 一方の襁褓山は、そんな増田男の姑息な企みに気付くこともなく、館内を埋め尽くした満員の客席から浴びる歓声に、うち震えていた。

 もちろんテレビ中継などで、幕内の取組がどれほど盛り上がるものかは知っている。だが、知っていることと実際に体験するのとでは、こうも違うものなのかと、襁褓山は驚きを隠すことが出来なかった。

 凄い……、凄過ぎる!

 360度全ての方角から鳴り響く大声援のサラウンド。そしてその一挙手一投足を逃すまいと、客席のあちこちから一斉に焚かれるカメラのフラッシュ。そしてもはやこの模様は日本全国津々浦々までライブ中継され、今やその中心にいる人物こそ、国民的スターでアイドルだ。

 元々がナルシストだった襁褓山は、夢見心地のまま仕切りを続け、一人この状況に酔いしれていた。そう、そこには大きな過ちがあることを忘れていたのである。

 三段目の優勝決定戦。別に襁褓山が勝とうが増田男が勝とうが、世間の関心はそこにはない。負けた相撲で勝ち続けた増田男が、ついには優勝決定戦まで進出したが、そこには〈週刊文身〉が言うような"増田男の呪い"が本当にあるのかどうか? 世間の関心は全てその一点に集約されているに過ぎない。満員の客席から巻き起こる大歓声も、一斉に焚かれるカメラのフラッシュも、全てはその"瞬間"を目の当たりにするという期待、言うなれば野次馬の荒波が押し寄せているようなものだった。

「構えて!」

 そして気が付けば、時間一杯となっていた。

 行司が促す声にハッとなり、現実に戻された襁褓山が、あたふたと腰を下ろす。だが相手は増田男。慌てて立つ必要はない。ゆっくり見て立てば良いと襁褓山は、そこで大きく深呼吸をした。

 ――ん?

 手を突いて前を向いた襁褓山は、何かが可怪(おか)しいと感じた。ことここに至り、漸く気が付いたのである。

 (にら)み合った増田男の額から、ダラダラと見苦しいほどの大量の汗が吹き出している。普段は飄々ととらえどころがなく、『ひつじのショーン』を思わせる人を小馬鹿にしたような雰囲気を纏っているが、この時の顔は死に物狂いとでもいった感じで、その様子はまるで、楳図かずおの描く劇画調ホラー漫画の登場人物のようだった。

 ま、まさかあいつ――!

 その時ムワッと、土俵上に増田男の激甚腋臭(げきじんわきが)の臭いが漂い始めた。だが襁褓山がそれに気付いた時には既に、行司の軍配は返っていた。

 仕切り線の内側で見て立った襁褓山。だがそれも、増田男が想定していた通りの立合いだった。増田男は左足を踏み出すと同時に、左手を襁褓山の頬目掛けて思い切り伸ばしていた。しかしそこに、一つだけ増田男の見落としていた事態が存在した。

 増田男が左足を踏み出したその位置には仕切り線があり、そこは増田男の全身から止むことなく滴り続けた汗でしとどに濡れていたのである。

 つるっ。

 仕切り線に溜まった自らの汗で左足を滑らせた増田男は、張り手にいった左手が襁褓山の鼻先で思い切り空を切ることとなり、決定的にバランスを崩した。

 満員に膨れ上がった館内、報道するマスコミ、そして日本全国相撲ファンもオカルトファンも、老いも若きも男も女も誰もが注目する中、増田男は、その間(わず)か零コンマ3秒というまさにインド人もビックリの早業で、対戦相手の襁褓山に触れることなく、己れの汚染汗にまみれた土俵に尻から落ちていったのである。

「えっ?」

 まだまだ経験の浅い行司は、本当にこれで勝負が決したのかと、思わず疑問の声を上げていた。キョロキョロと土俵下を見回し、渋い顔をした審判長が小さく「うむ」と頷いたのを確認してから、軍配を西方の襁褓山に上げ、勝ち名乗りを告げた。せっかくの晴れ舞台、ついいつもより二割増し出血大サービスの大声を出してしまった行司は、土俵上に漂う不穏な何かをその口中に大きく吸い込んでしまい、ゴホゴホとむせた。むせて涙目になりながらも行司の頭の中は、これでは一体決まり手は何なのだと、疑問符がぐるぐるぐるぐると渦を巻き続けた。

 あまりと言えばあまりの結末。膨れ上がった期待は風船を針で突いたように一瞬で消えた。

「あぁ~……」

 そんな絵に描いたような期待外れっぷりに、会場のあちこちからは10分ほども掻き混ぜた納豆のような粘っこく糸を引く落胆の声が聞こえてきた。

 二人が降りた後の土俵には何もない空間がただ広がるばかりで、確かにそんな戦いがあったことを証明するかのように、土俵上にはいつまでも、増田男の激甚腋臭の残り香だけが、漂い続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ