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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
25/68

それぞれの名古屋場所 千秋楽 その1

「えーっ! 増田男っ!?」

 (うしとら)に勝って7戦全勝となったその日、宿舎に戻った襁褓山(むつきやま)は、優勝決定戦の相手が増田男に決まったとの報告を受け、普段の渋いバリトンボイスからは想像もつかない素っ頓狂な声を上げた。

「な、な、何で……? 照ノ坊(てるのぼう)じゃねえのか?」

「それが……」

 照ノ坊との一戦を楽しみにしていたことを知っていた平和は、自分が悪い訳では全くないのに、申し訳なさそうに頭を掻きながらことの顛末(てんまつ)を話した。


 この名古屋場所、初めて三段目に昇格を果たした増田男は、場所前に体調を崩していたこともあり、苦戦が予想されていた。しかし、負けたと思ったら相手に勇み足があって勝ちとなり、負けたと思ったら相手の指が髷に入っていて反則勝ちとなり、と、そんな薄氷を踏むような相撲ばかりで6連勝と優勝争いの先頭を走っていた。

 そして迎えた十三日目。増田男の相手は元大関の照ノ坊だった。両膝の大怪我で大きく番付を下げていた照ノ坊はこの場所、圧倒的な大関相撲で完全復活を果たしていた。

 その恐るべき強運で白星を重ね続ける増田男のことを、マスコミは"名古屋の奇跡"と、増田男のキャラクターもあり面白おかしく報じたが、さすがにそれもここまで。照ノ坊相手ではその強運も尽きただろうと報じていた。

 だが十三日目、会場となる愛知県体育館に向かう照ノ坊にアクシデントが起きた。原因不明の腹痛に襲われて救急車で運ばれる事態となり、会場入りすることが出来なくなったのだ。

 増田男が不戦勝の勝ち名乗りを受けると、館内からはザワザワとしたざわめきが起きた。

 これはよもや、"名古屋の奇跡"などという言葉で言い表されるほど生易しいレベルのものではない。もはや本物のオカルト、"増田男の呪い"だと。

 すると、何人もの記者が同時にターゲットとなる人物に張り付き、その人物のスキャンダルを暴くという"文身(ぶんしん)(じゅつ)"で有名な〈週間文身〉が、過去の増田男の取組を徹底的に調べあげ、怪しい取組をピックアップして、急遽"増田男の呪い"の特集記事を組んで発売した。そしてその号の〈週間文身〉は、あっという間に書店やコンビニの店頭から消えていった。

 記事の中で、"増田男の呪い"を裏付ける対戦として取りあげたその最たるものが、前年の大阪場所で艮に勝利した、あの取組だった。

 その取組では、上手投げで増田男を土俵に叩きつけようとしたその瞬間、艮は突如として意識を失い、土俵上に仰向けにひっくり返っているのだ。その時の取組を撮影した視聴者の映像がたまたま残っていて、それを入手した民放のワイドショー番組は、繰り返しその映像を流した。

 元お笑い芸人のガタイのいい司会者は、目を見開き、自身の霊体験などは皆無であるにも関わらず、声をからしながらしたり顔で言う。

「これはホンモノかも知れない……」

 かくしてあの取組のことを、勝者である増田男も負けた艮も、友沼部屋の関係者も全てが皆、"アレ"のことをひた隠し、「う~ん、分からん」と口を(つぐ)んだため、その真相は闇に包まれたまま、いざ決戦の時を迎えようとしていた。

 折しも幕内の最高優勝者がこの場所は、前日すでに横綱の白城(はくじょう)に決まっていたこともあり、そこから逸れつつある大相撲ファンの興味が三段目の優勝決定戦へと向かったことで、この日の愛知県体育館は、早い時間から物凄い熱気に包まれていた。

 東の控え室へと向かう千大王は、花道の奥の通路で土俵に向かう増田男とすれ違った。そこには飄々とした、何を考えているのか分からないいつもの増田男の雰囲気は鳴りを(ひそ)め、ある種の悲愴感すら漂わせた、全身から大汗をかいた増田男の姿があった。

 増田男は、右手を上げて挨拶を交わそうとした千大王にも気付かず、真っ直ぐ前だけを見据えて歩み去っていく。その瞬間に千大王は察知した。増田男が再び"アレ"をやろうとしていることを。

「ダ――」

 ダメだ、そう止めようとした千大王が振り向いた時、増田男の姿は既にそこにはなかった。

 ダメだよ増田男君。こんな日に"アレ"をやるなんて。そんなことをすれば、君はきっと大相撲界にいられなくなる……。ああ、自分のせいだ。私があの日あの時、あんなアドバイスをしたせいで、こんなことになってしまったんだ。

 強い後悔の念に駆られた千大王の全身がワナワナと震え出し、そんなことになったら自分も増田男と一緒に大相撲界から去るしかない、と覚悟した。

 増田男が花道の奥から姿を現した時、館内からは「おーっ!」という、歓声とも罵声ともつかない、一種異様などよめきのようなものが巻き起こった。

 増田男には元々、他の力士が持ち合わせているような強い出世欲はない。もちろん相撲は好きだが、稽古で辛い思いや痛い思いをするのは嫌いだし、自分に特別な才能があるとも思っていない。関取になって活躍し、それで生計がたてられらるような力士は特別な存在で、自分は大相撲の歴史に埋もれて消えていく、その他大勢の(いち)相撲取りだとしか考えていない。そう、優勝を目前にしたこの時でさえ、そこまで強く、優勝にしがみついている訳ではなかった。ただ唯一、増田男がしがみついているのは、三段目の優勝者に贈られる、30万円の優勝賞金だった。

 優勝なんて遠い世界の話だとこれまでは考えたこともなかった増田男だが、相手の勇み足や反則、更には不戦勝で次から次へと白星が転がり込み、気が付けば目の前に30万円がぶら下がっていた。この、俄に降って湧いた現実に、増田男は執着した。何としてでもこの30万円を手に入れたくなったのだ。だが、優勝決定戦の相手は同じ友沼部屋の襁褓山。手の内を完璧に知り尽くされている相手に、増田男の勝ち目はない。あれこれと悩んだ末、増田男はやっぱり"アレ"をやるしかない、と決断した。

 一方の襁褓山も、やはり悩んでいた。こちらは悩み抜いた末、夜になって友沼親方に相談を持ちかけていた。

「明日は俺、勝っちゃっても良いんですか?」

「ん?」

 どういうことだ、というように、友沼親方は目を剥いた。

「だって、普通に戦えば、俺が勝つでしょう。でも世間は、あの……、何だ……、"増田男の呪い"とかいう増田男フィーバーで、明らかに増田男が勝つことを期待している。ここで俺が、不可解な形で負けたりすれば、完全に増田男ブームになりますよ。そうなれば友沼部屋のある久須村には、興味本位の観光客が大勢訪れるんじゃないかと――」

「ちょ、ちょっと待て。何でお前がそんなことを気にする?」

 襁褓山の言葉を遮り、友沼親方は慌てたように言う。

「だって、村長の山田さんは相撲で村興しをしようとしているでしょう。だったら別に、俺が勝とうが増田男が勝とうが、友沼部屋の力士が優勝することに変わりはないんだし、それならば――」

 いやいやと手を振り、友沼親方は饒舌に話す襁褓山の言葉を再び止めた。

「大体だな、増田男が三段目に昇格したのだってまぐれみたいなもんだったし、そんな化けの皮はすぐ剥がれる。これだけ注目されて相撲を覚えられたらあいつ、来場所以降は相当厳しくなるぞ。俺も一度、あいつとは腹を割って話をしなきゃならんと思っている……。それから襁褓山よ、俺はお前の最近の頑張りを評価しているんだ。このまま怪我もなく順調にいけば、来年の内には関取になれるんじゃないか」

「お、親方……」

 そんな風に親方から言われたことは初めてだった襁褓山は、思わず声を詰まらせた。

「世間はお前のことを、崖っぷちだとか何とか言うようだが、俺がいくつまで現役を続けたか知っているか?」

 そう、友沼親方こそ、幕内の在位場所数の記録を作った"レジェンド"であるのだ。そんな親方だからこそ、それらは一つ一つが重みのある言葉となって、襁褓山の胸に突き刺さる。

「お前は今、28歳だよな。だったら、これからが本当に力の発揮出来る年齢だ。まだまだ若手のつもりで稽古に励め。それと今回の優勝は、友沼部屋創設以来、初めての快挙だ。その優勝者には、部屋の設立時からこの部屋を支えてくれた、お前になって欲しいんだよ」

 もはや全身に鳥肌が立ち、奥歯を強く噛み締めたまま襁褓山は、親方の顔も見ずにコクンと深く頷くようにして立ち上がると、足早に宿舎を後にした。

 月夜の開眼寺の境内には、隣接する田畑との間に何も遮るものがなく、そこにはこの日、猛暑日となった濃尾平野の名残のような生暖かい風が吹き抜けていた。仁王立ちになった襁褓山は、(ようや)くそこで強く噛み締めていた奥歯を解き放つと、鳴り響くウシガエルの合唱に向かって号泣した。

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