それぞれの名古屋場所 十三日目
艮は社会人を経て角界入りした変わり種である。
営業職に就いた社会人時代には、情けない営業成績しか残すことが出来ず、その丑窪寅蔵という威勢のいい名前と大きな身体が縮こまるほど、鬼上司の説教を受け続けた。三年ほど続けたが、説教漬けの毎日がついに耐えられなくなり、逃げるようにして相撲の世界へと戻ってきた。
その堂々とした体格に反するノミの心臓で、学生時代の相撲部では肝心な試合になると負け続けた。ところが"角界のノムさん"こと名匠野々村親方の部屋に入門すると、その適切な指導のもと精神的にも成長し、元々あった潜在能力を開花させ、二年弱で三段目まで駆け上がった。
そしてこの名古屋場所、その才能が一気に爆発し、この十三日目まで6連勝と優勝争いの先頭を走っている。十三日目、艮の対戦相手は友沼部屋の襁褓山だった。そう、艮にとって友沼部屋は因縁の相手とも言える存在で、その相手と優勝を争うということに、艮は宿命のようなものを感じていた。
「千大王よ、一体、艮って奴はどういった力士なんだ?」
その前夜、襁褓山は宿舎の大部屋で本を読んでいる千大王に声を掛けた。千大王は、艮と同じ千両大学の一年後輩にあたるのだ。
「え~と、学生時代は強烈な右の上手投げを得意にしていましたね。でも投げ技に拘り過ぎて四つ相撲を貫いていましたけど、正直言って脇は甘いし腰高だし、すり足も下手だし、粗の多い相撲でしたね。でも最近は突き押し相撲に変えたみたいで、あの頃とは全くの別人になっちゃったんじゃないかなぁ……?」
人の良い千大王は読みかけの本を伏せ、丁寧にそう答えた。
「そうか、俺と同じ突き押し相撲か……」
やはりここまで6連勝と波に乗る襁褓山はどうしても優勝したく、本当は年下の千大王に助言を求めるのはプライドが許さないのだが、更に食い下がって尋ねた。
「以前、確か増田男が奴に勝ったことがあったよな。あの時は何か秘策みたいなものがあったと聞いたが、それは何だったんだ?」
「えっ――」
まさか"必殺! 腋臭の浴びせ倒しぃ~"などと言う訳にもいかず、考えた末、苦し紛れにこう言って口を濁した。
「あれは、増田男の飛び道具みたいなもので、到底、襁褓山さんみたいな、まともな力士のやることではないと……」
「まあ、そうだろうなあ……。だって、増田男だもんなぁ……。よし、分かった。有り難う」
その千大王の口振りからある程度の事情は察したようで、それ以上追及するのは止めた。未練を断ち切るようにそう言って歩み去る襁褓山の背中に向かい、千大王は声を掛けた。
「明日は頑張って下さい!」
「おうッ」
と襁褓山も、軽く右手を上げてそう答えた。
そして迎えた名古屋場所十三日目。土俵上には三段目でここまで6連勝同士、襁褓山と艮が上がっている。
襁褓山も艮も、現在ともに28才の同い年。この1、2年で関取の道が見えないようだと現役続行も厳しくなる。そう、この名古屋場所で優勝すれば、関取の道が見えてくるのだ。そんな二人の対決をマスコミは面白おかしく取りあげ、"崖っぷち対決"などと呼んだ。
突き押し相撲は俺の方がキャリアが長い。俄仕込みの突き押し野郎なんかに、負ける訳にはいかねーぞ、と襁褓山は、仕切りながら早くも闘志をメラメラと燃やしていた。
対する艮の方も、友沼部屋には遺恨がある。しかし艮は、そんな思いを封じ込め、襁褓山とは対照的な淡々とした仕切りを続けている。
そしていざ立合い、仕切り線から下がって立った襁褓山が、体当たりの後、突っ張りで先手を取る。友沼部屋きっての伊達男である襁褓山が、その表情に鬼気迫るものを滾らせ、五発、六発と、重たい突っ張りを艮の上半身目掛けて放っていく。それを艮は、下から手をあてがい、冷静に捌いているかのように見える。
こ、こいつ……、なかなかやるじゃねぇか……。
だが襁褓山が感じるほど、艮にも余裕はない。ギリギリのところで堪え、踏ん張っているのだ。しかし名門野々村部屋には、犇という、当代きっての突き押し相撲の名手がいる。猛稽古により艮も、こういった前捌きはかなり上達していたのだ。
"明日は襁褓山に攻めさせろ。お前はそれを堪えながら、捌いていろ。何とかなるはずだ。但し、苦しそうな顔はするな。平然としていろ。そうすれば襁褓山は必ずはたきにくる。お前はそこを前に出るだけで良い"
野々村親方のアドバイスを忠実に守る艮。我慢しきれなくなり、ついに襁褓山は後ろへ下がった。
今だっ!
その瞬間を待っていた艮は勢いよく前に出た。しかしその野々村親方のアドバイスは、奇しくも平和が初勝利をあげたあの日に、襁褓山が平和に与えたアドバイスと同じものだった。
はたき込みにいくと見せかけた襁褓山は、更に右足を大きく後ろへ引いた。ぽっこり空いた空間に、艮の上体は流れていく。そして襁褓山は、長い左手を艮の首に巻きつけた。肝心なところで腰高の悪い癖が出た艮は、襁褓山の首投げをまともに食らっていた。
「うおーっ!」
左手を大きく振った襁褓山の口から、思わず洩れる渾身の叫び声。そして艮は、派手に背中から土俵に落ちていく。更には転がした艮の上に、勢い余ってバランスを崩した襁褓山も重なるように倒れていく。しかし倒れながらも襁褓山は、早くも勝利を確信したガッツポーズを決めている。
「よしっ!」
7戦全勝の勝ち名乗りを受けた襁褓山は、再び小さくガッツポーズをした。
しかし襁褓山は、これで優勝が決まった訳ではなかった。千秋楽には7戦全勝同士、この名古屋場所における三段目のガチガチの大本命、圧倒的な優勝候補と言われる相手との、優勝決定戦が待っている――。
……はずだった。




