千大王の夏場所 その2
大相撲というのは一瞬のスポーツで、勝負がつくまで15秒も続けば長い方だと言われている。そのため立合いの良し悪しで八割方勝負が決まるとも言われ、どの力士も立合いに自分の型とも言えるルーティンを持ち、日々の稽古で鍛練し、自分の型に磨きをかけている。
そんな重要な立合いを、親方から前の晩になっていきなり「変えよう」などと言われるのはまさに青天の霹靂で、千大王はあんぐりと口を開けたまま、二の句が継げずにいた。
「立合いを……変える……?」
「フム……」
そう言って小さく頷いたきり、友沼親方も何か考え込む様子で口を閉ざしている。
そもそも千大王は入門当時、まだ自分の立合いというものを、しっかりとは確立していなかった。それを現在のような、相手より先に両手を突いて待つ立合いにしようと助言してくれたのは、当の友沼親方なのだ。
大相撲の立合いというのは陸上や水泳のスタートとは違って、明白な合図で始まるものではない。相手との呼吸を合わせ、その一瞬で両手を突いて立つという曖昧模糊とした部分があり、力士個人の性格や力量などによっても有利不利が生じ、完全に公平と言えるものではない。そのため少しでも先手を取って自分有利の立合いにしようと、様々な駆け引きが生まれる。
友沼親方から推奨されて千大王が長年慣れ親しんだ、相手より先に両手を突いて待つ立合いには、その微妙なタイミングを完全に相手に委ねるという潔さがあり、相手からしてみれば完全に自分の間合いで立つことができるので、これほどありがたいことはない。その一方でこの型には、立合いの駆け引きに心血を注がなくて済むという利点もある。
千大王は、自分がここまで出世出来たのは、親方が推奨してくれたこの立合いが自分に合っていたからだとポツリポツリと語り出し、その立合いを、この幕内昇進がかかった大事な一番で変えるのは如何なものかと訴えた。
うんうんと、その言葉を何度も頷きながら聞いていた友沼親方は、俺もまだ迷っているんだよと、苦しい胸の内を告白した。
そして二人の話し合いは、深夜まで続いた。
8勝6敗で迎えた千秋楽。この日の千大王は幕内力士との対戦なので、取り組みは中入り後の最初の一番となっている。
中入りでは幕内力士の土俵入りに続いて横綱の土俵入りが行われ、横綱の所作に合わせて、会場からは「よいしょー!」の掛け声があちこちで飛び交った。
十分に気合いを入れて控室を後にしたはずの千大王であったが、十両の取り組みにはない緊張感に、腹がちくちくと痛み始めた。しかもこの取り組みでは慣れない立合いにもチャレンジしなければならず、更なる重責が追い討ちをかける。
土俵に上がる前から千大王の額からは大量の脂汗が吹き出し、くらくらと眩暈にも似た感覚に襲われた。
ああ、自分はどうしてあの時、はっきり出来ませんと断らなかったんだろう、と千大王は今更ながら後悔した。友沼親方は、どうしても無理だったらやらなくても良いとは言ってくれたものの、出来ることなら親方の期待は裏切りたくない。
迷える千大王を前にして、対戦相手の白犀は自信に充ち溢れた顔をしている。ごつごつした顔の真ん中にある落ち窪んだ目が鈍く光り、どうやら自分との対戦には相当な自信を持っていることが窺い知れる。
その顔を見て、千大王は決意を固めた。
そう、自分は友沼親方を信じるだけだ!
そしてあっという間に仕切り時間は過ぎ、時間いっぱいとなった。
千大王は最後の塩を遠慮がちに放り投げ、仕切り線の外側に両足の位置を定めた。そして蹲踞の姿勢から一旦立ち上がり、下がりを右と左とに分け、最後にもう一度腰を下ろす。その際、ついいつもの癖で両手を下ろしそうになったが、すんでのところで右手だけを引き戻した。
「ん?」
その最後の所作を見た白犀が、一瞬怪訝な顔をした。
どうした千大王? いつものように両手を突かないのか?
どうやらこの日の千大王には両手を下ろす意志がないことを見てとると、白犀はフゥーッと大きく息を吐き、腰を下ろした。それから顔を正面に向け、千大王の目を見て呼吸を合わせる……。
よし、今だっ!
その瞬間、白犀はいつものように、軽く握った右と左の両拳を白線付近にチョンチョンと突くと、千大王の胸を目掛けて思い切り突進していった。




