千大王の夏場所 その1
五月、東京の両国国技館で夏場所が開催された。
この夏場所、周囲の不安をよそに十両でも安定した力を発揮し続けた千大王は、ついにその地位を西の二枚目まで上げ、いよいよ幕内昇進が現実のものになろうとしていた。ことにその右手で前みつを取る動きには磨きがかかり、対戦相手の中には「左手が伸びてきたのかと思った」と驚く者もいた。
前半戦から快進撃を続けた千大王は十二日目、早くも八勝四敗と勝ち越しを決めた。しかし右前みつ左上手を取る四つ相撲はどうしても対戦時間が長くなる傾向があり、体力面ではまだまだ劣る千大王は、この時点ですでに自分の限界を越えていた。
十三日目、十四日目と、あっけなく押し出される相撲で連敗した千大王は、八勝六敗という成績で千秋楽を迎えることとなった。そして最後の対戦相手は、今場所幕内に昇進したばかりの若手のホープ、天城野部屋の白犀に決まっていた。
白犀は190センチ190キロの巨漢で、十両では二度の対戦があったが、その時は立合いから一気に土俵際まで持っていかれ、ようやく千大王の右手が前みつにかかった時にはもう後がなく、あっという間に土俵下まで押し出されるという相撲で、いずれの対戦も負けていた。
今場所はしかし、白犀は幕内の壁に阻まれ、ここまで七勝七敗の五分という成績だ。幕尻であることを考えると、この対戦で負け越しが決まれば来場所の十両転落は明白である。
一方の千大王は西の十両二枚目。この対戦で負けて八勝七敗の成績では、来場所は一つ上げて十両の一枚目に留まる公算が高く、幕内に昇進するためにはどうしてもこの一番に勝って九勝六敗にしなければならない。つまりこの対戦は、幕内と十両の入れ替え戦とも言える戦いなのであった。
「ようし、やるぞっ!」
支度部屋を出る千大王はいつになく気合いの入った声で、自分の頬を二度、三度と思いっきり叩いた。それからフウーッと大きく息を吐き出し天井を見上げると、少し紅潮した顔で思い出していたのは、昨晩の友沼部屋での出来事だった――。
力士の湯から戻った千大王は、畦道の中をのんびりと歩いていた。山間の村は真夏日になった日中とはうって変わり、清涼な夜風が千大王の頬を撫でていった。
"夏は夜"とは、まさにこんな夜のことだな。
ことに力士みたいな、浴衣に下駄という和装の者にとって、こんな気持ちの良い夜はない。辺りは昼間の両国が嘘のような静けさで、月明かりに向かって蛙の合唱ばかりが鳴り響いている。
ああ、自分はやっぱり、友沼部屋のあるこの久須村が好きなんだ。十五日間、毎日両国まで通うのは大変だが、自分がここまで強くなれたのは、友沼部屋だったから。こんな景色、こんな風情があったからこそ、自分は気持ちをリセットして、また明日の取組に向かうことが出来るのだ。
明日こそは勝とう。勝って幕内昇進を決めよう。そして、友沼親方に恩返しをしよう。そう千大王は心に強く言い聞かせた。
友沼部屋に戻るとすぐに、千大王は親方に呼ばれた。
「何でしょう?」
親方の部屋に入ると、開口一番、友沼親方は難しい顔で腕組みをしながらこう言った。
「明日の一番は、立合いを変えていこう」
「ええっ! 立合いを……、変える……?」




