友沼部屋オリジナル その4
今から4年前、友沼部屋をここ久須村に新設する際に、村長の山田総一郎は友沼親方にできる限りの支援をすると約束した。食べ盛りの力士たちに、村で採れた野菜や果物、米や肉などの新鮮な食料をお裾分けしたり、両国で行われる本場所の際には、都心へのアクセスの良いターミナル駅まで、力士を車で送迎することなどだ。
全ては口約束でしかなかったが、それらのことは確実に、いやそれ以上の忠実さで、好意的に履行されてきた。
その一方で友沼親方には、若者が少なく、なり手のない村の消防団に、部屋の力士たちを入れて欲しいとお願いした。二つ返事で了承した親方は、部屋の力士どころか自らも入団し、火事の際には自ら陣頭指揮を採るほどとなっていた。
背が小さくて円らな瞳の、まるで子供のような童顔の村長と、足が長くて身長が190センチもあり、アンパンマンのような丸顔の友沼親方。二人が並ぶとまるで、親子そのものに見える。そんな二人の間にはそれ以来、「山ちゃん」「友ちゃん」と呼び合う、旧知の親友のような固い絆が結ばれている。
「おい平和、正式に入門が認められて、良かったな」
「あ、襁褓山さん、有り難うございます」
「お前も俺みたいな、立派な力士を目指すんだぞ」
「はいっ、頑張りますっ!」
「はっはっはっ、冗談だよ、冗談。そう真面目に受け取るな。まあ少なくとも、増田男みたいな力士にだけは、なるんじゃないぞ」
「あ、いや、あの……」
根が真面目な平和こと大関秀男は、何と答えたものかと言葉に窮した。がっしりした体格で男前の襁褓山は、今の平和にとってはもうそれだけで雲の上の存在だ。
今、二人の目の前には、鬱蒼とした手付かずのままの木々が生い茂り、眼下には里山の桜が今を盛りと咲き誇っている。そして聞こえてくるのは、すぐそばを流れるせせらぎの音だ。二人がいるのは、そんな居心地の好い、野趣に富むゆったりとした露天風呂だった。
この日、友沼部屋を訪れた大関秀男の両親は、女将特製のニンニク唐揚げを部屋の力士にも負けぬ勢いでたらふく平らげると、満ち足りた顔で栃木の実家へと帰って行った。そしてこの日の稽古を終えた友沼部屋の一行は、久須村にある入浴施設へとやって来ていた。そこは村営の日帰り入浴施設に過ぎないが、それでも歴とした天然温泉である。
友沼部屋が久須村に新設されたその年、村長の山田はそれまでアクセスが悪く、人気のなかった温泉のリニューアル工事を敢行した。広々とした露天風呂と、高血圧などに効果があると噂の、高濃度炭酸泉の浴槽を新たに増設した。名称もただの<久須温泉>だったものを、新たに<久須温泉 力士の湯>と改め、駅前からは無料のシャトルバスも走らせることにした。
シャトルバスは久須駅の南口を出発すると、まずは友沼部屋の前で停車し、シャッター通りを抜けて道なりに走る。しばらくすると勾配のある上り坂になり、そこからは悪路の細い山道をうねうねと右に左にカーブを切りながら更に十分ほども上っていく。その突き当たった終点が、<力士の湯>だ。
友沼部屋にももちろんお風呂はあるが、友沼親方をはじめ部屋の力士たちはみな、可能な限り<力士の湯>を利用するようにしている。当初は久須村の村興しに協力するという意図があったが、今では誰もがここの温泉を好きになり、一日の稽古を終えた後の欠かせないルーティンとなっている。
日中、雲一つない青空のもとで、鮮やかなピンクをあれだけ自己主張していた桜の花びらが、 日が暮れるに連れて少しずつ空の中へと吸い込まれていく。雄大な景色に包まれた平和は、前から気になっていた疑問を何気なく口にした。
「そう言えば襁褓山さんの"襁褓"っていうのは随分難しい漢字ですけど、一体どういう意味なんですか?」
その瞬間、あれほど饒舌だった襁褓山の顔がみるみる強張り、濃く太い眉毛に挟まれた眉間に、鋭い皺が刻まれた。
「あ、いや、あの……」
ああ、自分は何か、いけないことを口にしてしまったんだ。大きな地雷を踏んでしまったんだと、中学で三年間も苛めを受け続け、人の怒れる感情というものに人一倍敏感になっていた平和には、すぐそのことに気が付いた。しかしここで安易に謝ったりして下手に出てしまうのは、相手の怒りを更に増幅させるだけだということも知っている。
ああ、どうしよう……? どうすれば良い……?
迷った挙げ句に平和は、ここは何も言わなかったことにして、とぼけてしまうのが一番だと思い、固まったままの襁褓山に背を向けた。そろーりそろりと同じ姿勢を保ったまま、まるで能楽師のような、そんな滑るような足取りで音も立てずに湯船から出て行こうとした。
その先にいたのは友沼親方だった。親方はいたずらっ子のようなニヤついた表情を浮かべると、二人に向かっていきなりこう言い放った。
「オムツだよ。オムツ」
「ええっ? オッ、オムツ!」
あまりにも意外な言葉に、思わず平和は後ろを振り返った。
そこには道端で突然ゾンビに遭遇した村人のように、かっと目を見開いたまま、あらぬ虚空を見つめて硬直している襁褓山の姿があった。しかし親方は、まさに瞳孔も開かんとするそんな襁褓山の様子にも頓着なく、尚も言葉を続ける。
「こいつは牛乳を飲むとすぐに腹を壊すんだ。なのに稽古の前にガブガブ飲みやがって、廻しを着けたままで何度もクソを漏らしやがる」
「ひえぇっ!」
先輩力士としての威厳どころか、人間としての尊厳さえも傷付けられたかのような、悲痛な叫びが襁褓山の口から洩れた。
「何度も何度も漏らしやがって、その度に俺の可愛い景子ちゃんに、あんな汚物の付着した廻しを洗わせた。そうだよな、このオムツ山!」
「あっ……、ああ~……」
両手を目の前に翳して天を仰ぎ、いつもの渋いバリトンボイスから1オクターブ以上も高いテノールで絶望の声を上げた襁褓山はまるで、ゾンビに襲われてなす術もなく、生きたまま内蔵をむしゃむしゃと食べられる村人のように力をなくすと、そのままズルズルと湯船の底に崩れ落ちていった。




