友沼部屋オリジナル その3
突如として友沼親方の話に割って入った、どこか興奮した口調の大関秀男の母親に、親方はキョトンとした目を向けた。
「お酢……ですか?」
そう言いながらも親方は、土俵上の力士に目を光らせることを忘れず、「こらっ、将威、左の腋が甘いぞ」とか「友哉、摺り足摺り足」とか「増田男、遊ぶな」だのといった声を張り上げている。
「そうですそうです。我が家では、昔っから身体に良いからと、お酢をふんだんに使った料理をあの子に食べさせているんです」
「ほう、そうですか」
感心した様子の親方に、勢い付いた母親は更に続ける。
「ええ、そうです。お酢は素晴らしいですわ、親方。血液をさらさらにしてくれるだけじゃなく、疲労回復や身体を柔らかくする働きもあるんですものねえ」
「だからお前、それは――」
たしなめようとする父親の言葉を遮り、尚も母親は続ける。
「いいえ、あなたはそうやってすぐ、『そんなにお酢ばっかりかけたら料理が酸っぱくなる』とか言って反対しますけど、我が家の三人がこうして健康でいられるのも、全てはお酢のお陰ですのよ。あの子の身体が柔らかいのも、全てはお酢のお陰、お酢のお陰――ヒィッ!」
その時、土俵から突き飛ばされた増田男が、ゴロンゴロゴロとボーリング玉のように三人の前に転がってきた。
友沼親方は、その増田男の背中を裸足のつま先でチョンチョンとつつくと、「ようし、増田男、行ってこ~い」とやった。
「ちっくしょ~!」
立ち上がった増田男は悔しそうに握りこぶしを作ると、泥んこの背中を向け、参道を鳥居の方に向かって駆けていった。
「はっはっはっ」とその様子を面白そうに見ていた親方は、「この稽古では、取り組みに三連敗した力士が、山の階段を駆け下りて一往復してくる決まりになっているんですよ」と話した。
「はあ……、そうですか……」
いきなり目の前に力士が転がってきて、冷水でも浴びせられたように少し冷静になった様子の母親に、親方は言う。
「私も部屋の力士たちには、少しでも身体に良いものを食べさせてあげようと思い、調べてみたことがあるのですが、お酢が身体を柔らかくするという説に、残念ながら科学的な根拠はないみたいですね」
「あら、そうなんですか」
と、さも残念そうな母親に、
「しかしお酢が身体に良いことは疑いようのない事実ですから、友沼部屋の食事にはたっぷりとお酢を使った料理も出すようにしているんですよ」
「まあ。それは素晴らしい」
「ええ、力士はなんと言っても、身体が資本ですからね。もちろんそれだけじゃなく、他にも玉ねぎや梅干し……、あとはニンニクなんかも、よく使いますよ」
親方の言葉に二人の脳裏には、つい先ほど、友沼部屋の玄関から漂ってきた美味しそうな唐揚げの匂いが生々しく甦ってきた。思わずごくりと生唾を飲み込んだ二人は、互いに顔を見合わせた。
「そう言えば、親方」と母親は、そんな卑しい自分たちの性癖を誤魔化すように話の接穂を探し、声を上げた。
「あの子は特に、モロヘイヤにお酢を掛けて食べるのが大好きなんですよ」
「へえ、モロヘイヤをね~」
と友沼親方の言葉は、さも意外そうである。確かに、肉食系男子の多いこの大相撲界においては、モロヘイヤが好きだというのはかなりのレアケースだろう。
「それで、これは私からの提案なんですけど」と母親は、まるでいけない話でもするように声を潜めると、「あの子の四股名ですが、『平和』の前に、師匠の師という字を一字足して、『師平和』というのはどうでしょう?」と言った。
「師平和! 上手い、それは傑作だ!」と親方は手を叩いて喜んだが、次の瞬間には少し難しい顔になり、「しかし今の秀男君には、『師』の一字は少し荷が重くはないですかな? それはまた、出世した時のために取っておきましょうよ」と言った。
「はあ……」と母親は、少し調子に乗り過ぎたかなと反省し、「それもそうですね」と殊勝な顔で答えた。
「あれ? だけどお母さんは、秀男君が力士になることには反対だったんじゃあ、ないですか?」
「ええ……」と母親は眩しそうに息子の方に目をやると、「ですが、ああやって黙々とトレーニングをする姿を見ていますと、何だか家にいた時よりもずっと生き生きしているようで……、それに親方も、とっても理解のある方のようですし、それだったらやらせてあげても良いんじゃないかなあって、そう思えてきたんです」
「だけどお前、高校はどうするんだよ」
少し風向きの変わってきた二人の会話に、父親が口を挟んだ。
「大相撲の世界で出世できる力士なんてほんの一握りだろ。もし途中で投げ出すようなことになっても、中学しか出てないんじゃ、まともな就職口なんてないぞ」
それは、食事以外のことでは滅多に声を荒げたことのない父親の、思いもよらぬ激しい口調だった。しかしその口調は厳しいが、言っていることは親なら誰もが気にする当たり前のことだ。
「そのことなんですけどね、お父さん」と今度は友沼親方が口を挟む。
「大相撲界では最近、入門した若者のために、通信教育で高校卒業の資格を取らせる支援制度があるんですよ。秀男君にはそれを勧めてみようかと思っているのですが、どうでしょう?」
「へえ~、そんなものがあるんですか」と父親は一瞬、顔を緩めたものの、直ぐにキッと難しい顔に戻り、「しかし身体が柔らかいというだけで、通用するような世界じゃないでしょう。なんたってあの子は、運動神経ゼロの、この私と妻の遺伝子を引き継いでいるんですから」
「ええ、それなんですけどね、お父さん」と親方は父親の目を見据え、「秀男君に一度、試しに廻しを着けてもらったことがあるんです」
「え、そうなんですか?」
「ええ、それで、うちでは一番の若手である友哉と取らせてみたんです」
「取らせてみたって……? 相撲を、ですか?」
友沼親方は、それ以外に何があるんだというように、鷹揚に頷いた。
「そ、それで……、秀男は、どうなったんですか?」
「いや、もちろん、負けましたよ。そりゃそうです。体力ではまだまだ、足元にも及びませんからね。でも――」と親方は、嬉しくて仕方がないというように顔を綻ばせると、二人に向けて、こう続けた。
「秀男君は、形が良い」
「はあ……?」
「形が、良い……?」
それだけではピンとこない様子の二人に向けて、更に続ける。
「えーとですね。まずは、相手に当たる時の角度が良いんです。こう、腰を落として前屈みになり、下から少し突き上げるような感じのね」
身ぶり手振りを交え、素人の二人にも分かるようにと、友沼親方の説明は熱を帯びていく。
「はあ……」
「そうですか……」
それでも鈍い反応しか示さない二人に、親方は辛抱強く続ける。
「それに、なんと言っても秀男君は、腋が素晴らしい」
「腋臭が……?」
「素晴らしい……?」
「うがあっ! 腋臭ではありませんっ! 腋です、腋っ! 大相撲ではよく、腋が甘いとか固いとか言うでしょう。秀男君の腋の締まり具合は、とっても固いんだ」
「へえ……」
「そうなんですか……」
一瞬、我を失いかけた友沼親方の剣幕に納得しかけた二人だが、すぐに父親が疑問を投げかける。
「だけど、それがそんなに凄いことですか? 前屈みになるとか腋を締めるとかでしたら、稽古をすれば誰でも身に付くものではないのですか?」
「もちろん、そういったことは、誰もが稽古で身に付けていくものです」
そう言ったきり親方は、土俵上の力士に目を向けると、一頻りアドバイスを送ったり檄を飛ばしたりした。そしてどうやら三連敗したらしい、まだ高校生位の若い力士が参道の階段方向に駆けて行くと、「そう言えば増田男の奴、やけに遅いな」と、独り言を洩らしながら二人の方に向き直った。
「だけどね、稽古で身に付けたものではなく、それまでの生活の中で自然と身に付いていたものというのは、これは力士にとって、凄い強みなんです」
「そ、そうですか」
力強く断言する親方の言い方に、父親も納得せざるを得ないといった様子だ。
「例えば……、歯を磨く時の、歯ブラシを握る手の角度ですとか腕の位置、お風呂で身体を洗う際の、手拭いを持つ手の角度、それに、テレビで大相撲観戦をする時の、ソファーに腰かける姿勢なんかもそう。みんな同じ様で、実は人それぞれ微妙に違う。そうですね」
「え、ええ、そうです」
親方に振られ、父親はカクカクと二回頷いた。
その様子に親方は、「そうでしょう、そうでしょう」と鷹揚に頷き、更に続ける。
「これらのことを一つ一つ、歯を磨く時の手の角度と腕の位地はこうですとか、身体を洗う時のタオルの持ち方はこうですとか、ソファーに座る時の姿勢はこうしなさいとか、矯正して直させることはできるかも知れません。しかし矯正されて会得したものというのはどうでしょう? 本人が意識していない時、寛いでいる時、矯正されたことというのは頭の片隅から追いやられ、素のままの自分が出てしまうのではないですか?」
「ええ、それはそうだと思います」
「うんうん。そうでしょう、そうでしょう。特に大相撲というのは、短い時間の中で、目まぐるしく展開の変わるスポーツだ。そんな中、自分の態勢が有利になり、ここがまさに攻め時だという時、あるいはまた自分の態勢が不利になり、ここがまさに堪えどころだという時、稽古で培ったものを忘れて、つい自分本来の形が出てしまうというのは、よくあることなんですよ。まあ、稽古の質と量にもよりますけどね」
「なるほど。そういうものかも知れませんねぇ……」
「ええ、ですから指導する者は、突き押し相撲ですとか、四つ相撲ですとか、その人の個性にあった相撲を見極め、指導し、精進させていく訳なんですけどね」
「はいはい」と大きく頷いた父親はしかし、首を傾げ、更なる疑問を口にした。
「しかしうちの息子はどうして、そんな相撲取りみたいな腋の固さを身に付けたんでしょう?」
「それなんですけどね」と親方は少し神妙な顔になり、「秀男君は中学で三年間、同級生たちから苛められ続けた。その中には、いきなり背後から叩かれたり、蹴られたり、腋の下を擽られたりということもあったようです。秀男君は恐らく、いきなり擽られることを警戒して、普段から腋を締めて歩くようになったのではないでしょうか?」と話した。
「ああ、なるほど、そういうことか………。そう言われてみれば、そうかも知れませんねぇ……」と父親は、声を落として一人黙々とトレーニングに励む息子の方にちらりと視線をやると顔を上げ、友沼親方と向き合った。
「あるいは、私には……、高校にも行けなくなるほどの苛めを受けていた息子の、そんな悩みにも気付いてやれなかった私たちのような、そんな情けない親には、それでも息子に高校へ行けなどと言う権利は、ないのかも知れませんねぇ……」
「いや、お父さん、それは――」
「いいえ、恥ずかしい話なんですが、私はこの三年間、息子のあんな生き生きとした姿は、見た記憶がないんです。そうだよな、母さん」
「ええ、そうね」と母親も、汗を流しながら一人トレーニングに励む息子の姿を眩しそうに見つめ、「あんな逞しそうな息子の姿は、初めて見ましたわ」と言った。
「親方、私は決めました。息子を親方に、友沼部屋に預けます。それで良いよな、母さん」
「はい。私に異存は、ないわ」
「そうですか。それは良かった」
「それから息子は……、秀男は、そんなに強くならなくたって、偉くならなくたって良い。悪夢のようだった中学での三年間を、少しでも取り戻すことができるなら……、そんな充実した時間を過ごすことができるなら、それだけで良いんだ……。親方、秀男をどうか、よろしくお願いします」
そう言うと二人は、親方に向かって深々と頭を下げた。
「ちょ、ちょっとお父さんお母さん、頭を上げて下さい。私もつい熱くなって偉そうなことばかり言ってしまいましたが、この友沼部屋は大した出世力士もいない、弱小部屋に過ぎません。そんな頭を下げてお願いされるような部屋ではないんですよ。秀男君が出世できるのかどうかも、全ては本人の努力次第です。ですが、まあ、大相撲の世界に蔓延る、暴力体質のようなものが、この部屋にないことだけは、この私が保証します。秀男君が充実した生活を送ることができるよう、この友沼部屋に入門して良かったと思えるようになるよう、この私も努力致します。今日は、本当に有り難うございました」
そう言うと三人は、いいやこちらこそ、いいやこちらこそと、互いに恐縮しながら、果てることなく頭を下げあっていた。
とその時、鳥居を潜って駆けてくる人影が見えた。最初に罰ゲームで山を下りて行った増田男だ。その増田男の走りを見た親方の顔付きが変わった。
「こらっ! 増田男っ! 今まで何をしておった! 何をちんたら走っとるんじゃ! ダッシュだ、ダッシュしろっ!」
親方から叱責を受けた増田男は、ちっと小さく舌打ちすると、少し速度を上げて駆けてきた。そして三人の脇を通りすぎる際、こともあろうか親方に向かって「ベロベロベエ~」と舌を出した。
その瞬間――、
「あれ……?」
「この……?」
「ニンニクの匂いは……?」
「おい、増田男っ! 貴様、またさぼって、つまみ食いしてきたなーっ!」
「ひぇ~っ、何でばれたの~?」
「何でばれたのじゃないっ! 今日という今日は許さんっ! 百叩きの刑に処すっ!」
「ひぇ~っ、お代官様、それだけはお許しを~っ!」
言うが早いか、増田男はくるりと回れ右をすると、友沼親方に背を向けた。
「こら増田男っ、潔くお縄を頂戴しろっ!」
捕まえようと伸ぱされた親方の右腕を、八艘跳びで交わすと増田男は、背走を始めた。
「こら待てっ、こら待てぇー!」
ドタンバタンと二人が境内中を走り回ると、そのたびに満開の桜の木から、ヒラリヒラリと薄いピンクの花びらが舞い落ちた。
その様子を大関秀男の両親は、あんぐりと口を空けたまま眺めていた。
「確かこの友沼部屋には……?」
「暴力体質はなかったはずでは……?」




