入門 その2
ここしばらくは春本番の暖かな日が続いていたからだろう。あいにくの雨模様となったこの日、久須村は寒々とした雰囲気で、せっかく開花を迎えた桜並木を覆い尽くすように、上空をどんよりと分厚い雲が囲っている。
三月末、新年度入りを目前に控えたこの日、中学校を卒業したばかりの一人の少年が、友沼部屋を訪れていた。それは、友沼部屋としてはこの年唯一の入門者となるかも知れない若者だった。
普通に高校に進学した方が身のためではないか、そう諭そうとする友沼親方に対して少年は、案内された親方の部屋の畳が傷むのではないかというほどの勢いで両手を振り下ろし、声を荒げて激昂した。
おおっ! 今の腕の振りはなかなかのものだったぞ!
妙なところで友沼親方が感心していると、少年は声を詰まらせ、涙ながらにその心情を打ち明け始めた。
「楽しくなんか、ない……。高校なんか……、進学したって、一つも楽しいことなんか、ないんです――」
大関秀男と名乗ったその少年の地元は、栃木県の南端にある小さな町だという。ここ久須村までは電車の接続が悪いこともあり、この日は二時間以上もかけてやってきた。そして少年は、その地元の中学校で三年間、同級生たちからいじめを受け続けてきたことを告白した。
きっかけは、入部した柔道部をすぐに辞めたことだった。
少年が柔道部を辞めた次の日、新入部員の中では一番柔道の強かった竹澤という少年が、大関のクラスに現れた。
「おい大関、何でお前、柔道部辞めたんだよ!」
顔を見るなり竹澤は、怒鳴り声を上げて大関に詰め寄った。
「だって僕、練習についていけないし、みんなの足手まといになるだけだから……」
「お前がいねぇと、俺らの学年だけで団体戦が組めねぇんだよ!」
「だって、試合に出たって、どうせ僕なんか勝てるはずないし……」
「だってだって言ってんじゃねぇよ! 勝つのは俺らがやるから、お前はただの人数合わせにいてくれりゃあいいんだよ!」
「そんな……、ただの人数合わせだなんて……」
二人のやり取りを聞いていたクラスの男子たちは、ニヤニヤと笑いながらその様子を見ていた。大関は、その名字と柔道部所属という肉付きの良い体格から、少し不気味な存在としてそのクラスの中では存在していた。常にうつむき加減の気の弱そうな顔と自信なさげな小さな声。そんな普段の様子から、ひどく弱々しそうにも見えるが、実は怒らせたら怖い人なのではないのかと。
「勝手にしろっ! この弱虫がっ!」
竹澤は、大関が柔道部に戻る意志がないことを知ると、最後に胸の辺りを小突きながらそう捨て台詞を吐き、自分のクラスへと戻っていった。
小突かれた大関はバランスを崩し、ヨロヨロと机の角に腰をぶつけて倒れこんだ。
ああ、あの太った体格はやはりただの見かけ倒しだったんだ。
その瞬間、大関はただのおデブさんになり下がり、気の弱いことも、クラス中の男子に知れ渡ることとなっていた。
その日からだ。大関に対するクラスメイトの攻撃が始まったのは。
バシン!
廊下を歩いているだけで思いっきり背後から背中を叩かれる。
「よう、大関、相撲やろうぜ!」
嫌がる少年を無理やり引っ張り、廊下で相撲を取る。情けなく転がった少年をみんなで笑い者にする。
それでも大関がやり返すこともなく大人しくしていると、そんないじめはさらにエスカレートしていく。
背後から叩かれるのは、やがて擽られたりカンチョーされたりと、やりたい放題な感じでそのバージョンは増えていく。相撲を取って転がされ、大勢で馬乗りになられて制服のズボンを脱がされたこともあった。女子生徒も見ている前で。
このように、大関に対するいじめはシカトや仲間外れ、それに今時のSNSを利用した悪口の書き込みといった陰湿なものではなく、弱者に対する攻撃性といった、人類が古来より持ち合わせた、ある種の本能とでもいうものによるものだった。
弱者に対する攻撃。それは大人になれば社会性や理性といったものが身に付き、それによって自然と抑えることができるようになるものだ。しかし、この年頃の男子にそういったものは希薄で、情け容赦がない。しかし、陰湿という悪意によるものではない分、それがいじめであるという自覚も希薄だ。本能による衝動が大きい分、大関に対する攻撃は終わりを迎えることがなく、いつまでも続いた。そう、大関の身体をまるで玩具のように自由に小突き回していた者の中には、それがいじめであるとすら思っていない者が、少なからずいたはずだった。
そして少年は、まるで永遠とも思える中学での三年間を、そんないじめに耐えながら過ごした。
この春、大関はそんな中学生活にもピリオドを打ち、新たな高校での生活に突入するのだと期待していた。だが少年は、その肝心の高校受験に失敗した。
その結果、大関が入学することになったのは、学力レベルの低い地元の公立高校だった。そして同じ高校には、これまでさんざん少年を小突き回してきた連中が、そして何よりも、大関がいじめられる原因を作った、あの竹澤が入学するのである。
新たな可能性を切り拓くための高校進学。それが、入学する前から暗澹たる色に塗り潰された。
もちろん、高校生になった彼らが、中学時代と同じようないじめをするとは限らない。というか、半分大人になった彼らが、あんな幼稚ないじめをするとも思えない。そんなことは、何となく大関自身にも想像がつく。しかし、あの悪夢のような中学時代を知っている彼らの前で少年は、新たにできた友人たちと、楽しく、そして愉快に笑い合っている姿を想像することができない。きっと自分は中学時代と同じように、肩を竦めてオドオドと、伏し目がちに彼らの前を通り過ぎるのだろう。
そして少年は、そこから逃げる道を探すことにした。高校進学以外に何か違う道はないかと、ネットなどを駆使して懸命に探した。悠長に探している暇はない。四月になってもその道が見つからなければ、よーいドンで高校生活が始まってしまうのだ。そして、そのたどり着いた先が、友沼部屋だった。
「う~ん……。なるほどねぇ……」
少年の長い打ち明け話を聞いた友沼親方は、腕組みをして考え込んだ。それとは対照的に、胸に抱えた悩みを吐き出したことで、少年は少し、呆けたような顔をしている。
友沼親方は悩んだ。少年が高校に進学したくない気持ちはよく分かった。だが、それを諦めて、まるで駆け込み寺のように大相撲界に飛び込んできたところで、辛い稽古に耐えられるのか? 何といってもこの少年は、中学校の柔道部でさえ、ついていけずに辞めた経験があるのだ。
「あー……、取り敢えずあれだな。一度、君の御両親に来てもらって、話し合ってからだな。保護者の同意が得られんことには、話にならないからな。それまでは、まあ……、体験入門とでもして、大相撲界がどんなところか、雰囲気だけでも知っといてもらえば……、いいのかな?」
その瞬間、てっきり門前払いされるとばかり思っていた少年の顔が、パッと輝いた。
「はいっ! 分かりましたっ!」
あれ? 俺は今、この少年の入門を許可してしまったのか? この脂肪の塊のような少年の身体を、見事筋肉の鎧に変えることができるのか?
何だか分からなくなってきたぞ。もちろん、大相撲界と言っても相撲取りになるばかりが道じゃない。もし力士としての敵性がなければ、行事や呼び出し、床山という選択肢だってある。それに最近では、入門した若者のために、稽古をしながら勉強をさせ、高校卒業の資格を取らせる支援制度もあるという。そういったものを勧めてみるのもいいのかも?
「ただし、稽古は厳しいぞ。初日からビシビシいくから覚悟しとけよ」
友沼親方は、そんな内心の葛藤は顔に出さず、強い口調でそう言った。
「はいっ! 頑張りますっ!」
そして友沼親方はこう思った。今、この部屋に必要なのは、新しい風が吹くことなのかも知れない。少年の希望に満ちた顔を前にして、友沼親方も少しわくわくした気持ちが芽生えてきた。
そう、この瞬間、友沼部屋には一人の体験入門者が、新たに誕生したのである。




