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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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増田男対艮 その2

 土俵に上がった増田男(ますだお)は、まるで取組を終えた力士のようにゼエゼエと肩で息をしていた。仕切りの間も膝はガクガクと震え続け、四股(しこ)を踏もうと右足を高く上げると、踏ん張りのきかない左足はフラフラとふらつくような有り様だった。

 ど、どうするんですか、千大王(せんだいおう)さん? こんな状態でまともな相撲なんか取れるはずないじゃないですか!

 目の前で力強く仕切りを行う対戦相手の(うしとら)を見やりながら、増田男はそんな絶望的な気分を味わっていた。

 優に一回り以上も体格差はあり、艮を前にした増田男はまるで子供のように見える。入門から間がなく(まげ)も結えないザンバラ髪のままだが、そのことがかえって落ち武者のような迫力をこの艮に与えている。双の目には増田男に対する恨みをメラメラと宿し、このままでは本当に肋骨の一本や二本はへし折られてしまいそうだと、恐怖を感じた増田男は思わず身震いした。

 あの時、電話口で何か策はないかと助言を求めた増田男に対し、千大王はこう言った。

「とにかく今から取組までの間、休みなく体を動かし続けてごらん。四股に鉄砲、スクワットに腕立て腹筋、とにかく何だっていい、体を動かし続けるんだ。そうしたら何か面白いことが起こるかも知れないよ」

「面白いこと?」

「そう。面白いこと」

 含みを持たすような言い方に、何か引っ掛かるものを感じた増田男だが、それ以上のことは千大王は話すつもりはないらしい。

「でも千大王さん、そんなに体を動かし続けたら、本番の取組では疲れきってまともな相撲なんか取れるはずないですよ」

 そう増田男は当然の疑問を口にした。ただでさえ稽古量の足りない自分のような者が、取組前のちょっとした空き時間にトレーニングをした位で何とかなるはずはないのだ。そう、自分のことは自分が一番よく知っている。

「あれ、増田男君。君はまともな相撲で勝ったことなんてあったっけ?」

 不安を口にする増田男のことを、千大王はそんな言葉で茶化した。

「まあ、それはそうですけど……」

「いいから言われた通りにしてごらん。必死にトレーニングをする君の姿に、土俵の神様が何か奇跡を起こしてくれるかも知れないよ」

 その"何か"を言おうとしない千大王の言葉に不穏なものを感じた増田男だが、他に思いつく策があるわけでもなく、異を唱えることも出来ないまま通話を終えた。

 結局増田男は、半分捨て鉢な気分のまま言われた通りに支度部屋の中で、これでもかと言うほど体を動かし続けるしかなかった。


「手を突いて!」

 気が付くといつの間にか時間一杯となっていた。仕切り線の後ろでなかなか手を下ろそうとしない増田男に向けて、軍配を返した行司が苛立ったように声を上げた。顔を上げると艮と目が合い、その顔は不気味に微笑んでいる。

 慌てて艮から目を反らした増田男が両手を下ろすと、いまだ回復しない両(かいな)は、だだっ子がイヤイヤをするようにプルプルと震えている。ああ、自分はこの後、この男によってこっぴどく土俵に叩き付けられるのだなと、諦めにも似た感情が増田男の全身を支配した。出来ることならこのまま回れ右して逃げ出したいところだが、もちろんそんなイヤイヤが許されるはずもなく、「はっけよい、残った」の合図とともに、すぐさま取組は開始された。

 "角界のノムさん"こと野々村親方の作戦通り、増田男の奇襲を警戒した艮はのっしのっしと様子を見ながら前に出た。当の野々村親方はこの時、勝負審判として土俵下に座っていたが、隣に座った人でさえ気付かぬほどの小さな動作で頷きながら弟子の相撲を眺めていた。

 力なく前に出た増田男も、このようにじっくり見られては打つ手がない。ええい、ままよとばかりに渾身の力を込め、艮の鎖骨付近目掛けて両手(もろて)を伸ばした。

 その様子を見ていた野々村親方は、うっすらと微笑みながらもう一度頷いた。

 ふっふっふっ。対戦相手にこんなにじっくりと構えられては、お得意の奇襲戦法も使えまい。困った君はやけくそ気味に両手突きにくる。それもわしの計算通りや。

 艮は、野々村親方の予測通りに両手突きにきた増田男の両腕を難なくはね上げると、がっしりと両手で増田男の廻しを掴んだ。

「うっ」

 あまりの怪力に思わず呻き声を洩らした増田男は、そのまま身動きが取れなくなった。そう、ここまでの展開は全て野々村親方が描いた筋書き通りだった。ああ、この取組は艮の勝ちだと、観戦していた観客は誰もがそう思ったに違いない。だが、この後の展開は野々村親方が描いた筋書き通りとはいかなかった。

 艮にがっしりと両廻しを握られた増田男に、もはや残された力はない。まるで万歳でもするような窮屈な体勢を強いられたまま、どうすることも出来ずにじりじりと後退した。このまま艮が前に出れば、難なく増田男を寄り切ることが出来ただろう。だがこの日の艮には、白星を手にする以上にやり遂げなければならないことがあった。即ち、増田男を思いっきり土俵に叩き付ける、ということである。

 もはや完全に勝利を確信した艮は、ここぞとばかりに右の拳に力を入れ、今一度廻しを握り直した。そして間合いを測るように一つ呼吸をして腰を落とすと、口を開けて大きく息を吸った。しかし艮が思いきり息を吸ったその場所は、むき出しになった増田男の腋の下という(いわ)く付きの場所であった。そこには力士たちによる激しいぶつかり稽古にも耐え忍び、しぶとく生え残った申し訳程度の腋毛がチロチロと侘しげに伸びている。そして今やフィリピン沖の南太平洋で発生し巨大な勢力を保ったまま日本列島へと近づく猛烈な台風もかくやという艮の荒い呼吸に翻弄(ほんろう)され、それらの腋毛は右に左にゆらゆらと(うごめ)いている。その、言わばど根性腋毛とでも呼ぶべき増田男の数本の腋毛の周りからは、まるで有明の干潟から元気良く顔を出す初夏のムツゴロウのごとく、ジワジワと大量の汗が発生していた。

 そう、つい今しがたまで、支度部屋の中でやけくそ気味に体を動かし続けた増田男の全身からは、拭っても拭っても拭い切れない、大量の汗が噴出し続けていた。そしてこの時すでに死に体状態にあった増田男ではあるが、腋の下のアポクリン汗腺から分泌され続ける汗と皮脂腺から分泌される皮脂とが混ざり合い、それらが常在細菌のエサとなって分解、代謝されることで、鼻ももげようかという尋常でない臭いを、今この瞬間にもせっせせっせと排出し続けていたのである。

 な、何だ? この臭いは――?

 瞬間的に異臭を嗅いだ艮の、エラの張ったいかつい顔が醜く歪んだ。そして急速に彼の意識は薄らいでいき、そのまま闇の底へと落ちていった。

 艮が、口から鼻から目一杯息を吸い込み肺へと送り込んだ空気。それは、背筋も凍りつく増田男の腋臭(わきが)によって著しく汚染されたものだった。

 増田男の腋臭――それは、友沼部屋で生活を共にする者や稽古を見学に来た者たちの間で少しずつ噂となり、まるである種の都市伝説のようにジワジワと広まっていった。あの臭いはヤバイ、ヤバ過ぎる。あれは間違いない、本物だと。

 ある者はそれを腐った玉ねぎの臭いだと言い、またある者は(こぼ)れた牛乳を拭いた直後の使い古した雑巾の臭いだと言う。そしてまたある者は、マサイマラ国立保護区に生息する野性のクロサイの臭いだと、普通の日本人には到底想像も及ばぬようなことを言い、いいやあれは、くさやの腐った臭いだと、分かるような分からぬようなことを言う者もいる。そして終いには、たらふく食事をしたゾンビが吐くゲップの臭いだなどと、まともな人類には到底想像も及ばぬようなことを言う者まで現れる始末。

 よりによって艮は、そんなただならぬものを肺一杯に吸い込む、などという自殺行為にも等しい行いをした。その結果意識を失った艮は、お腹に増田男を抱えたまま、土俵の中央で仰向けに倒れた。まるで地響きでも聞こえてきそうな普通でない倒れ方に観客席からはざわざわとどよめきが起きたが、逆に艮は倒れた拍子に目を覚まして上半身を起こした。すると今度はその跳ね起きた勢いで後頭部に出来たコブの痛みが伝わったのか、「イテテテテ」と言いながら顔をしかめて後頭部を押さえた。

 その様子を土俵下で見ていた師匠である野々村親方は、表情も変えずに「バカが」と、小さく一言呟いた。

 一方、思いがけず白星を手にすることになった増田男は、本当に俺の勝ち? というようにキョロキョロと周りを伺いながら勝ち名乗りを受けた。

 浴びせ倒し――迷った挙げ句、審判によって下されたのは、そのような決まり手だった。

 その決まり手を聞いた千大王はこう思った。確かに浴びせ倒しには違いない。しかし浴びせたのは"体"ではなく"臭い"だと。まあ、個人的な遺恨を土俵に持ち込んだ艮の自業自得でもあるわけだから、今回ばかりは許されよう、と。

 だがフェアプレイを心がける友沼親方は、「勝った勝った」と喜びながら帰ってきた増田男に対し、「ちゃんとデオドラントしろ!」と説教をした。

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