軽率の代償
「ルーク、ちょっと良いかい」
先生が僕を呼んでいる。
何かあったのかな。
「実はね、君にこれを見せるように言われてね」
計算問題?
ああ、何だ、こんな問題か。
「どうだい、理解出来るかい」
「X=5、Y=8ですね」
「え……」
「あれ、違ってました? 」
「いや、そうではなくてね」
「あの、何か」
「暗算で解いたのかい」
「そうですけど」
「これは驚いた。まさかこれを暗算で解けるとは思わなかったよ」
「あの、これが何か」
僕は失敗したのかも知れない。
いくら簡単に解けるからと言って、それが世間の常識とは限らないって事。
確かにあんな計算問題は教わっていない。
ただ、見たら解き方が理解できただけだ。
それが拙かったんだな。
だって今習っているのは足し算と引き算なんだし。
そもそも平民に許される学問は四則計算までであり、そこから先は貴族達の独壇場と言われている。
それでも学びたいのなら、高いお金を払って上の学校に行かなくてはならない。
貴族なら無料の学校も、平民にはきついのが現状だ。
それは貴族が国の政に関わる事もある地位であり、平民は庇護される存在だからと言われている。
「君、あれを本当に解いたのかい」
「あの、適当に言ったら合ってたんです。ごめんなさい、あんなの見た事もなくて」
「やれやれ、人騒がせな。おかしいと思ったんだ、平民があれを解くなどと」
「あれはどんな物なのですか」
「ふん、まあ良いだろう。あれはな、お前達には関係の無い、上の学校の卒業試験問題のひとつだ」
「そうなんですか」
「あれを解く為には全く新しいアプローチが必要になるのでな、お前達では答えられないのが当たり前なのだ。なのに解いたと言うから驚いたが、余り人騒がせな事をするな」
「ごめんなさい」
「まあ、今回は良いだろう」
「あの、もう」
「ああ、構わんぞ」
「失礼しました」
ああびっくりした。
まさかあんな問題が卒業試験問題だなんて。
あんなの中1で習う……あれ、中1って何だっけ。
どうにも最近おかしいよね、僕。
やっぱり僕の中に別の僕がいるみたいだ。
その僕は計算が得意なんだね。
だって僕にはあれは解けないけど、中の僕には簡単だと思えるんだから。
ああ、なんか混乱してきた。
ダメだダメだ、こんな事を考えていちゃ。
余計に変な気持ちになってしまう。
おっと、早く帰って手伝わないと。
忙しく仕事をしていたら、知らない間に変な気持ちは消えていた。
どうにもつらつらと考えてみるに、学校に行くと変に気持ちになると気付いた彼。
だからもし本当に自分の中に存在がいるとして、学校に行かなければ問題無いんだと理解してしまう。
折角、親に頼んでまで行けるようになった学校なのに、このままではもう……
ともかく、しばらくお休みをして、それから進退を考えようと思った彼だった。
それから学校へ連絡し、仕事が忙しくなったからしばらく休みますと告げておく。
平民はよくそう言う事があり、それでも民に学を授けてやろうという為政者の慈悲のようなもの。
その立ち位置なので学校の経費は全て為政者負担となっている。
彼はそれから宿の仕事に邁進し、そんな彼を見て母親は、もう学校は飽きたのだと信じた。
(あんな事を言っていたけど、やっぱり勉強とかつまらなかったんでしょ。うんうん、もう行かなくて良いからね)
部屋の掃除に客の案内、そして洗濯物の受け取りと洗濯。
料理の下拵えの合間に母親から料理を教わる。
実に精力的に働き出した息子に、妙な逞しさを感じてつい頼ってしまう。
なので彼が暇になる事はなく、日々の仕事に忙殺されて、学校の事はすっかり忘れている彼だった。
彼が仕事に熱中しだしてから数ヵ月後、領主の使いと名乗る者が宿を訪れる。
「君かね、あの問題を解いた者と言うのは」
彼は思い出す。
そういやそんな事もあったなと。
しかしその問題はもう終わったはずなのにと。
「あの、あれは偶然に、その」
「そう言って誤魔化したそうたね」
「いえ、本当に適当に答えただけで」
「別に責めている訳ではないのだぞ」
「本当に知らないんです」
彼は泣きそうな声で訴える。
今の環境はとても良いのに、あんな事が知られたら騒動になる。
やっと料理も教えてくれるようになったのに、また手伝えなくなる。
そんな厄介事の匂いを感じ、彼はそれから逃れようと必死になっていた。
「そうか、どうしても違うと言うのだね」
「はい、ごめんなさい。僕が冗談で嘘の答えを言ったばかりに」
【君はいくつだね」
「8才です」
「年もちょうど良いのだがね。どうかね、うちの息子の友になってはくれんかね」
「あの、勉強の話じゃ? 」
「あいつは勉強を嫌うのだ。だからな、年下のお前のほうが勉強が出来れば、負けず嫌いなあいつも勉強に向くと思ってな」
「勉強は貴族の特権ですよね。なのにそれを嫌うのですか」
「ふっ、はっはっはっ、実に頼もしい発言ではないか。で、どうかね」
確かに貴族に雇われれば給金に問題は無いだろうけど、そうなると宿の手伝いがやれなくなる。
最近、少しずつ任されるようになった、宿の重要の仕事のあれこれ。
計算もやれるようになったという触れ込みで、会計の仕事も任されるようになった今、それを捨てるのはためらう。
(最近、少し頼ってくれているのを感じるし、それを捨てるのは無いよなぁ)
彼の中の存在の意思も彼と同じようで、残念ですけどと彼は断る事になる。
「ならばな、仕事としては言わん。ただ、その存在を見せ付けてはくれぬか」
「どういう意味でしょう」
「1度で良いから我が屋敷に来て欲しいのだ。そしておぬしの存在をあやつに見せて欲しい」
「平民の子供の姿を貴族のご子息様に見せて、為政者としての心構えを説くんですか? そういうのは子飼いの方にしてはいただけませんか。僕はしがない小さな宿屋の息子ですが、見も知らぬ子供の踏み台になるつもりはありません」
中の存在が暴走しちゃったよ。
どうしよう、拙い事になっちゃったよ。
何であんなに強い言葉で……大変だよ。
おろおろしていると、妙に静かな様子。
ふと顔を上げてみると、小さく震えているような感じ。
怒っているのだと思った彼は、ごめんなさいを繰り返す。
「素晴らしい、素晴らしいぞ、おぬし」
どうやら感動していたらしい。
人騒がせなおっさんである。
本人の意思はもはや問題にならず、お付の者達は速やかに彼の母親に話を通す。
領主様からの招待という、平民に望むべくもない栄誉に母親はただ戸惑うばかり。
ただその中でも仕事の手を取られるのは困ると、ただそれだけは何とか言えた彼女だった。
「ふむ、母子でやっておる宿か」
「私が残りましょうか? 」
「あやつの代わりにかの」
「部屋の掃除と客の受付、後は雑用ぐらいなればすぐですし」
「なれば頼もうかの」
「はっ、承りました」
しかし、お付の彼は知らなかった。
ルークが過剰なまでに仕事に熱中し、あれやこれやと仕事をしていた事を。
話は強引にまとまり、ルークが連れられて行った後、お付の彼の受難が始まった。
どうせ子供がやっていた仕事、ならばあっさり終わらせてのんびり出来ると踏んでいた彼は、早朝から近くの港町まで魚の買出しに出かけ、現地で彼が捌いていたとの漁師の言葉にその場で捌く羽目になり、港の魔術師に氷を作ってもらう為に、その魔術師のマッサージをやる羽目になり、帰宅してすぐに朝食になったものの、食後に皿洗いをして部屋の掃除に掛かり、客の物音で中止して客の対応をやり、そのついでに会計もやりと、昼までにやるべき仕事が山程あった。
ようやく昼飯になったのは良いが、食堂での料理の手伝いをしながらの食事。
つまみ食いをしながら働くなど、貴族の館ではあり得ない話。
それでも食いながら動かないと仕事が無くならず、彼は思いの外、きつい仕事のせいでのんびりする暇は全く無かった。
(これが8才の仕事量ってふざけてるだろ。こんなの大人でもきついぞ)