新月の夜
毎日を忙しくこなす僕は、あの日のとまどいを忘れたかのように過ごしていた。
それでもたまに感じる違和感。
僕の中に別の誰かが住んでいるような、そんな不思議な感覚。
知らないはずの授業の内容を、あたかも既に習ったかのように理解する自分。
それは算数の授業に顕著に現れ、初めて見る数式のはずなのに、その答えが分かるのだ。
不思議だけどそういう体験もたまにあるらしく、それは天性の才覚とかって言われるらしい。
まさかこの僕にそんなものがあるとは到底思えなかったけど、実際に何度もこうやって理解出来るのは他にどう言えば良いのだろう。
それでも僕は平民であり、小さな宿の独り息子に過ぎない。
他にも子供が居ればまだ、その才覚とやらを伸ばしてみたいと思わなくもないけど、僕にそんな自由は無い。
僕に許されているのはただ単に、この国の文字とか歴史などを知るだけの事。
後は商売の為の計算能力の為の授業を受ける自由、ただそれだけだ。
その事を僕は不自由とは思わない。
だってそれが平民たる僕に許される範囲での自由だと分かっているから。
これでもまだ母さんは、僕に学ぶ機会を与えてくれている。
その事に感謝すれども、それを不足に思うような親不孝な事は到底思えない。
新月の日、この日は宿の唯一の休日になる。
月の女神の隠れたるその夜は、魔物の活動が活発になると言われていて、旅をする人達もその日に外に出ないようにするのが当たり前になっている。
この宿に泊まっているお客さんもこの日だけは外に出ないで過ごす為、入り口も閉めて静まり返っている。
もちろん学校もお休みで、街のお店も全部閉まっている。
どの家も固く扉を閉ざし、その日が過ぎるのを待つのである。
だからその日だけは宿の手伝いもしなくて良いので、部屋でのんびりする事になる。
屋根裏部屋の僕の部屋の寝床に横たわり、真っ暗な外を鎧戸の隙間から覗く。
人気の無い通りにただ生暖かい風が吹くばかり。
背筋が寒くなったので早々に覗き見は止めて、鎧戸を固く閉めて寝床に横になる。
何もしなくて良いと言うのも退屈なものだと、彼は久しぶりの暇な時期をぼんやりと過ごそうとした。
その時である。
彼の脳裏に浮かび上がる、全く知らない街の様相。
見た事も無い高い塔のような建物と思しき物が林立し、物凄く多い人達が歩き回っている巨大な町の様相。
知らないはずなのに何故か見覚えがある風景に、神父さんに教わった言葉が浮かんでくる。
既視感……人は死して転生をするらしく、かつて生きていた時の事を稀に覚えている人も居るとか。
だから知らない場所なのに妙に懐かしく感じる場合、かつての生での体験があったのだろうと言われていると神父さんは言っていた。
だからもしかしたら僕も、かつてはそんな不思議な街で生きていて、そうして今の僕に転生したんじゃないかと思えたんだ。
その頃に算数を色々やっていて、その事を覚えていたんだなと。
そうして僕はその夜、当時の事を夢に見た。
☆★☆
「あれもダメだったか」
「無理だと思いますよ」
「まあなぁ、だが、今回は若い子だったから、もしかしたらと思ったんだが」
「向こうの世界でその日その日を必死で生きている存在と、明日に絶望した存在。その意思の力は全く違います。まず向こうの存在に食われて消えるのが当然の話」
「とは言うものの、真実を明かす訳にもいかんからな」
「まだ続けられるんですか? このプロジェクトは」
「仕方が無いだろう。それが世界の為に必要な事と言われているからな」
「融合吸収など、単に殺しているのと意味は同じですよ」
「いやいや、それでもインスピレーションの糧にはなっていよう」
「それだけと言うのも哀れなものですね」
「存在は相当に増えているんだがなぁ」
「でもあれって水増しのようなものでは? 」
「巧くいかないものだな」
☆★☆
新月が明けた朝、また新たな女神の月が始まる。
そうして休み明けは大抵忙しく、学校もそれに合わせて今日も休みになっている。
早朝から空き部屋の掃除をやりまくっていた僕は、宿泊客の部屋をノックしてゴミや洗濯物を受け取る事になる。
彼らは今日も部屋に篭り、明日の朝から当たり前に動く事になる。
うちの常連さんである、女神教の人達だから。
本当は神殿に寝泊りすべき人達だけど、新月の禊で信者でごった返すこの時期は、自腹で宿に泊まるのが美徳とされているとか。
新月の禊には参加せず、その代わり宿の部屋の中でひたすら祈りを捧げていた。
僕には女神とかよく分からないけど、この世界を見守っている存在って言うからありがたい存在なのだろう。
でもさ、ただ見ているだけって本当にありがたいものなのかどうか。
人の苦しむ様をただ見ているだけの神様ってどうなんだろうと思う。
別に助けてくれとは言わないけど、困っている人も苦しんでいる人も、手出しをしないで単に視ているだけなら誰でも出来そうだけど、助けられる力があるのに助けないって、人には難しい事なのかも知れない。
だって僕ならつい助けてしまいそうになるから。
それを我慢強く視ているだけって神様は、やっぱり凄い存在なのかも知れない。
でもそんな存在、ちっとも偉く感じないけどな。