返歌4
「やっと、見つけましたよ!」
「そうか」
掠れた声で返す言葉はどこか震えているような気がした。馬鹿みたいに動揺しているな、と酒呑は気づく。
(こんな気持ちになったのは、初めてだ……)
負け知らずの人生に初めて負けを知ったような気分。体も思考も、やけに強張っているように感じる。
「突然に叫んで走り去ったと聞いて、吃驚して追いかけたんです。全く、何を考えているんですか?」
お前のことを考えていたんだとは言えずに、酒呑は口を噤む。言えるわけがない。
「まぁいいです。見つけましたから。それよりも、大事なお話があります」
……やめてくれ、聞きたくない。
酒呑は耳を塞いでしまいたかった。だけど、体が動かない。腕が上がらない。肩から先が失くなってしまったかのように感覚が消えている。
「大事な話は、俺には、ねぇ……」
搾り出すような声で、ようやくそれだけを言い放つ。心臓がばくばくと鳴っていた。心臓とは、こんなにも鼓動を打っていて、大丈夫なものなのだろうか? 判然としない頭でそんなことを考える。
だが、泰葉はそんな酒呑の様子にも気づかぬのか、毅然とした態度をとり続けていた。
「私にはあるんです。いいから聞いて下さい」
「聞きたくねぇ」
「言います」
「言うな」
すっと泰葉が息を吸い込む。
嫌だった。泰葉の声から交際の報告をされることなど――。その鈴の音のような澄んだ声で、残酷な結末を告げられることなど、酒呑には我慢のならないことだ。耳を塞ごうと必死に腕に力を込める。
けれど、遅い。泰葉の声が耳朶を打つ。
「お酒を呑むのはいいんですけど、周りを巻き込んで吐くまで呑ませるのはやめて下さい」
「…………」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
交際の報告……、ではない?
拍子抜けというよりも、驚きの方が強いか。彼は間の抜けたような、気概の抜け落ちたような、それこそ十は歳が更けてみえる顔をしていた。
「私だってこんなこと言いたくはなかったんですよ? ですが、虎熊さんからどうしても酒呑さんに言って欲しいと文を貰ったものですから」
酒呑は混乱する頭を何とか平静になるように保とうとする。
「そういう文を……、虎熊がくれた……?」
「はい。直接言っても聞かぬので私の方から言って欲しいと。というか、見てらしたのでは?」
「いや、そんなのは見て――」
思い出す。泰葉と虎熊が仲睦まじく語り合う光景。
まさかという思いで、酒呑は顔色を蒼褪めさせる。
(勘違い、していた、のか……?)
恋文を渡した相手は虎熊ではない。虎熊は、泰葉に酒呑の酒癖の悪さを直すように指摘するように文を送っただけで、決して恋文を送っていたわけではなかった……?
だが、するとどうなる。
本命は? 虎熊の前の男か? 彼が本命であったのだろうか?
いや――、と酒呑は心の中で頭を振る。
それに関しては、自分の目で確かめたはずだ。男が本命の文を貰ったとは思えない。では、あの恋歌は何なのだ? あの恋歌は一体どこに行ったというのか?
酒呑は惑う。
「直して下さいますか?」
「え、あぁ。えっと、そうだな、考えてみる……」
「そうですか! 良かった!」
酒呑の晴れぬ気持ちとは真逆の、華やいだ笑顔。それこそ、どこか嬉しいことでもなければ、そんな笑顔はできまい。
――酒呑は彼女の気持ちが分からない。
実に穿った見方で彼女の笑顔の奥底を覗き込もうとする。けれど、彼女は純粋無垢な笑顔で、酒呑のねじ曲がった視線を弾くかのようであった。裏表のなさそうな笑顔がやけに眩しい。
「それで……、ですね?」
「まだ何かあるのか」
「何かあるのかではなくっ!」
「?」
「へ、返事をもらえませんか……?」
「返事?」
――とんと覚えがない。
酒呑は言葉を濁す。
「酒癖の悪さなら考えてみるって――」
「だから、そうではなくっ!」
焦れたように彼女は酒呑に詰め寄る。どうやら少しばかり怒っているようだ。
「聞きましたよね! 昨日!」
「昨日……」
「私の恋歌!」
――聞いた。確かに聞いた。
その句は一字一句違えずに、酒呑の耳に残っている。だからこそ、酒呑はこんなにも朝からやきもきせねばならなかったというのに、何で怒られねばならぬのか? ……理解できない。
「あぁ、確かに聞いた」
「では、判るでしょう?」
酒呑は理解のできぬような……それこそ、深淵の器の話を最初に聞いたような表情を返す。
泰葉の言いたいことに皆目見当がつかないのだ。
「いや、全く」
「全くって――、私の気持ちです!」
「気持ち? 気持ちって……、どういうことだ?」
「どういうことって――、なんで私の気持ちが分からないんですか!?」
怒鳴られ、ついに酒呑の頭にも血が上る。泰葉の気持ちが分からなかったからこそ、自分はここまで苦労しているというのに、何で彼女はここまで自分を責めるのか。怒りが鍵となり、封じていたはずの心の鎖が大仰な音を立てて派手に爆ぜ割れた気がした。こうなってしまっては止まらない。
――止まる気もない。
「わかるわけねぇだろ!? わかんねぇから、昨夜、一晩も寝ずに考えてたんだからよ!」
「え?」
「お前は言ったな! 俺の目の下にくまができてやがると! そりゃ、お前が誰が好きなんだろうかとか、誰に恋歌を送るんだろうかとか……。そんなことを一晩中悶々と考えてたからだ! そりゃあ、目の下にくまだってできらぁな!」
「あ……」
「そんで気になって仕方ねぇから、朝っぱらから、お前の後をつけて恋歌の行方調べてみても、結局、誰にも送らねぇし!?」
言いながら、なんて女々しいのだろうと後悔する。けれど口は止まらない。舌が回る。
「そんなんで答えが出るかよ!? 出ねぇだろ!? 結局、お前が一体何を言いたいのか……、全く……、全く分かんねぇよ!」
肩で荒い息を吐き出す。溜まった鬱憤を口から吐瀉した後に残ったのは激しい後悔と言ってやったとばかりの僅かな満足感。
……恐る恐る泰葉の表情を覗き見る。
怒るでもなく、呆れるでもなく、彼女の表情はどこまでも穏やかで真摯に見えた。
「酒呑さん」
「何だよ。呆れたか? 俺がこんな女々しい奴で」
「思い出して下さい」
「あぁ? 何を?」
「私は確かにあの時に恋歌を詠みました」
「知ってらぁ! だから、何度も言わなくても――」
「あれは、返歌ではありません」
それも知っている。何故なら、彼女はあの恋歌を誰にも送らなかったのだから――。
だから、返歌ではない。
それ故に、酒呑には分からぬのだ。
拗ねたような目で彼女を見るが、彼女は逆に真剣な目で酒呑の瞳を覗き込んでいた。何かを必死で伝えたい。そんな気配がはっきりと伝わってくる。
「私が恋歌を詠んだ相手は、あの時、あの場にいた相手にこそです」
「あの時、あの場にいた相手……?」
記憶を手繰る。
だが、思い返しても酒呑と泰葉の二人だけで話していた記憶しか思い起こせない。他に誰かいただろうか?
(二人しかいなかったような? 他に誰かいたか? ん、二人? 二人、だけ……?)
酒呑の両眼に徐々に理解の色が現れる。
(泰葉と、『俺』しかいなかった……?)
酒呑の目が徐々に丸くなっていく。盛大な勘違いにようやく気づいたのか。
泰葉はそれを見てから、再びゆっくりと告げる。
「お返事、頂けませんか?」
「えぇと、それはつまり、その、もしかして……」
適当な言葉が見つからぬ酒呑は、恐る恐るとばかりに指先を自分の顔に向け、泰葉にその意志を確認する。
すると、泰葉はその様子に迷いなくこくりと頷きを返していた。
「え……。あ……。えぇっ!? 何……、くそっ!? そういう……」
その意味合いが分からぬほど、酒呑も馬鹿ではなかった。待て待てと慌てふためき、気持ちの整理をつけようとばかりに深呼吸。気が逸り、気が焦り、気もそぞろに、気も揺らぎ、どうしたら良いのか全く判らなくなる。
(こっ、こういう場合にはどうしたら良いんだ!? へ、返歌!? 返歌を返すべきなのかっ!?)
閃いてはみたものの、酒呑は京の貴人とはかけ離れた生活をしている。常日頃から歌を詠むような男ではない。そんなものを急に考えようとしても、頭の中が真っ白になるばかりだ。それでも、彼は立ち上がり、泰葉に何かを言おうとして――。
何も出なかった。
(駄目だ。何もでねぇ!? 気持ちを伝えられるような恋歌なんて、そんな小難しいもの、急に出るわけがねぇ!?)
悔しいやら恥ずかしいやらで、酒呑はぎりりと唇を噛む。こんなにも愛しい人が近くにいるというのに、それを伝えることもできないのか? 憤りに、顔色が赤を通り越して白くなってくる。焦りが極限にまで達する。
「悪ぃ……」
「酒呑さん?」
酒呑の様子を心配した泰葉の言葉に、心が揺り動かされる。
……愛しい。とてもとても愛しい。
この声が、この表情が、この心遣いが、この泰葉という存在そのものが狂わしいほどに愛しくて堪らない。気づいたときには、酒呑の頭の中では返歌のことなど、どうでも良くなっていた。この愛しさを伝えるには言葉だけなんて、全く足りないからだ。
彼は、そのいっぱいの愛情を伝えるかのように、両腕を大きく広げると、その腕いっぱいに――彼女の体を包み込むようにして抱いていた。
……これがいい。
これなら、泰葉を胸いっぱいに感じられる。
「悪ぃ。俺、馬鹿だからよ。こういう場面で気の利いた返歌の一つも詠めねぇ。けど、お前を想う気持ちだけは本物だから。だから――」
ぎゅと抱きしめてくる酒呑の力強さに身を任せるようにして、泰葉の体から力が抜け落ちる。やがて、彼女のか細い両腕も、酒呑をいっぱいに感じるかのようにして酒呑の背中へと回されていた。
「いえ、これでいいです……」
彼女は熱い吐息を漏らしながら言う。
「うぅん、これがいいです」
酒呑と泰葉は互いに強く抱きしめあう。
やがて、二人はどちらともなくその場に倒れこみ、そして――。