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キキキタン  作者: 荒薙裕也
第一章、大江山の鬼
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返歌3

 当初、泰葉は縁側から何処かの部屋へと向かう様子をみせていた。


 だが、その歩みがふと止まる。


 泰葉の目の前、本格的に日が照り始めた縁側を歩いてきたのは背の低い男だ。


 頭頂部で乱暴に束ねた髪に猫のような瞳、そして浅黒い肌――、虎熊である。


 彼は泰葉と会うなり、気易い様子で何事かを語りかけ、それに応えるようにして、泰葉もやんわりと笑みを浮かべていた。


 ――気の合う様子だ。仲も良い。


 果たして、二人は何を会話しているのだろうか?


 気になって耳を澄ませるが、仔細にまでは聞き取れない。


 やはり距離が離れすぎているか。そう上手くはいかないようだ。


 だが、これ以上近づくにしても、身を隠す遮蔽物がない。下手をすると、正面にいる虎熊に気づかれる恐れもある。酒呑は自重する。


(虎熊の表情さえ見ることができれば間違いねぇはずだ……。だから、ここで無理する必要はねぇ……)


 酒呑はじっくりと静観する構え。


 二人の会話は、最初は何気ない挨拶から始まったようだ。


 その様子を見る限りでは、文を渡す相手ではないのかと訝しんでしまうがそうではない。


 状況が動いたのは直後。


 泰葉が例の色紙を取り出し、それを躊躇することなく虎熊へ渡したのである。


 あっ、と酒呑の表情が固まる。


 虎熊は格段の笑みを見せ、泰葉の言葉に一も二もなく頷いてみせていた。


 そして、色紙の中を早速とばかりに確認する。


 やはりここでも虎熊は満面の笑み。


 それは、どう見ても恋文に対する快い返事をもらった笑みであり、二人の関係は仲睦まじい関係にしか見えなかった。


(そっか。そうだよな……)


 思い返してみると、心当たりも多い。


 泰葉に牛蒡掘りをやらせてより、一番泰葉に声をかけていたのは虎熊であったような気がするし、定期的に開かれた宴会でも虎熊は、常時泰葉の近くに陣取っていたような気がする。


 考えてみれば、当然の結果だ。


 虎熊が泰葉に選ばれたということに、何の不思議もない。


 二人は和らいだ笑顔で話し合う。


 その様子に、酒呑はどこか胸が締めつけられる思いでいた。


 ――胸が苦しい。


 息が上手くできずに、視界が狭まる。そのくせ、血が一気に引いたかのように全身が寒くなり、断崖絶壁に立たされたかのように身が竦む。足が重く、体が動こうとしない。


 本当なら、泰葉のもとに駆け寄り、おめでとうの一言でも言ってやらねばならぬのだろう。


 だというのに、倦怠感が邪魔をする。


 体が動かない。指一本でさえも動かしたくない。


 そんな思いが酒呑の体を金縛りのように縛りつけ、やがて息をするのさえも苦しくなってくる。


(死ぬかもしんねぇ。このままじゃ……)


 やがて話も終わったのか、泰葉が踵を返す。


(――やべぇ!)


 脇目もふらず、酒呑が隠れている廊下の角の方へと向かってくる。このままでは鉢合わせだ。


 酒呑は動かぬ体に鞭を入れようとするが、体は全身がばらばらになってしまったかのように言うことを聞かない。「馬鹿動けっ!?」と心の中で喝を入れるも、自身の体はそっぽを向いたかのように、うんともすんとも言わない。


 自分の情けない状態に、思わず酒呑は泣きそうになってしまっていた。


「あれ? 酒呑さん? 何をしているんですか? こんなところで?」


 焦る酒呑とは裏腹に、平時と同じ状態の泰葉の声がする。


 彼は泰葉の目を見ることもできずに視線を逸らす。


(駄目だ。いけねぇ。今は泰葉の顔も見れねぇ……)


 何かを返さねばならなかったのだろう。


 だけど、何を言ったら良いものか。


 酒呑はまるで喉の奥に痰が詰まったかのような気持ちの悪さに浸る。


 いや、言うべき言葉は決まっている。


 ――おめでとう、だ。


 だが、それが喉の奥に絡みついたように出てこない。


 それが、酒呑の気持ちとは真逆だからなのか。


(……あぁ、そうか。そういうことか)


 酒呑は事ここに至って、自分が何を考えていたのかようやく知ったような気がした。


 知ることにより、緊張で凝り固まっていた全身から力が抜ける。気概が抜け落ちる。覇気が薄れる。


 くたり、とその場で倒れこんでしまいたくなった。


 ……何と間抜けなのだろう。


 自分は頭の良い方ではないと思っていたが、まさかここまで間が抜けていたとは――。


 酒呑は、ふと全てを悟りきったような笑みを見せると、泰葉の肩をぽんっと叩く。


「おう、幸せになれよ」

「へ?」


 それだけを言い残し、酒呑は泰葉を置いて縁側を歩いて行く。酔ってもいないのに、足元がふらりふらりと定まらぬのは気持ちが定まらぬ故か。


(駄目だ。魂が入らねぇ……。一人になりてぇ……)


 縁側を歩き、玄関へと向かう。


 途中、茨木に出会ったような気がしたが、酒呑はそれを適当な返事でもってあしらっていた。


 とにかく、今は誰とも話したくなかった。


 ――一人になりたかった。


 玄関で浅沓を履き、とんとんっとつま先で地面を蹴る。自然と脚に力が入り、酒呑はその一歩を力強く蹴り出していた。一歩が強く蹴り出せたのなら、後はその流れに身を任せる。体は自然、風を切るかのようにして徐々に速度を増していく。


 何かにぶつけねばならなかった。


 この底意地の悪い、気持ちの悪い思いを――。


 酒呑は走る。


 野を駆け、思いの丈をぶつけるかのように大きく息を吸うと――。


「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――ッ!」


 轟くような咆哮を残して、山の方へと向けて駆けていくのであった。


     ●


「……俺は馬鹿だ」


 馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまで及びもつかぬ馬鹿だとは――。


 力なく項垂れる。胸には、ぽっかりと空いた喪失感。その喪失感はなにものにも代え難く、酒呑は現実世界に自身を繋ぎ止めるようにして、手頃な幹のひとつに背を預ける。


 どこを、どう走ってきたのか。


 山道を駆けまわり、大声を出し、道なき道を走った気もするが、最終的にはどこかしら見覚えのある景色の場所へと落ち着いていた。


 拳大ほどの大きさの石が川の流れに沿うようにして無造作に転がり、水気を含んで黒ずんだ土と、夏に向けて生気を貯めているかのような老竹色の苔が群生している。


 この光景には見覚えがある。


 確か、御殿の近くにある不動の滝のすぐそばの沢だ。


 自身が消えてしまっても構わないとばかりに闇雲に走ってきたはずなのに、気づけば自身の記憶にある風景と見事に一致――。


 結局、がむしゃらなように見えても、ちゃんと計画を立てて走っていただけなのかもしれない。


 それを考えると、酒呑は情けなさ過ぎて涙が出そうになった。


 感情に身を任せたつもりでも、それができない。いつから、こんなにも自分の感情を表に出すのが下手になったのだろうかと嘆く。


 そのおかげで、彼は自分の内にある大切な気持ちにまで気づくことができなかった。


「本当、死にてぇぐらいの大馬鹿だ、くそ……」


 全身からどっと力が抜け、木の幹に力が加わる。


 その勢いに圧されてか、中空に張り巡らされた枝から、残っていたであろう僅かばかりの枯葉が舞い落ちた。その光景に、木の枝からさえも抗議を受けている錯覚を覚え、酒呑は強ばった笑みを見せる。


「へっ、木にまで迷惑かける大馬鹿かよ」


 力なく笑い、ふと空を見上げる。


 空からは真っ白く柔らかな陽光が降り注ぎ、その白さが酒呑に彼女の姿を想起させていた。


「泰葉……」


 最初はなんてこともなかったはずの少女――。


 自身の逆鱗に触れ、そのままの勢いで拐かしてきた少女だ。そこに、特別な思い入れなどあるわけもない。


 鬼御殿に家族として迎え入れ、同じように生活して、そして『判って』もらえばいい――、そんな風に考えていただけだ。


 だから、初めての宴の席で、彼女を家族に迎え入れるように口説いた。結果は失敗だったが、その内に判ってくれるだろうと思って放っておいた


 けれど、彼女はあまりに世間知らず過ぎた。


 だからこそ、ひとつひとつ、手取り足取り教えていく内に、情が湧いてしまったのだ。


 それは、あくまでも恋慕の情ではなかったと思う。


 言うなれば、親が子を見つめるような慈愛の気持ち。


 決して、同じ高さではなかったはずであった。


(……けど、目を離さずに泰葉の姿を追ってる内に、俺はあいつが時々非常に良い笑顔をすることに気づいちまった。笑顔に気がついた後は、その声がとても人の心を満たすことにはっとした。そして、その内に、その所作がとても艷めいて見えることに気づいたんだ。そして、気づいた時には――、俺の視線はアイツのものになっていた)


 それが、どういう気持ちからくるものなのかは、薄々気づいてはいた。


 だが、薄々気づいていながら、酒呑はそれを真剣に考えようとはしなかった。


 彼の目の前には泰山のように、課題が山積みだったからだ。それらを疎かにしてまで、夢中になることではないと、無意識の内に感情を封じたのである。


(この気持ちを封ずるのは必然。そう自分に言い聞かせなけりゃあならなかった。恋だ、愛だのにうつつを抜かす暇は、鬼御殿を束ねる頭領には、不要の代物だから……、だから、出てこねぇようにって、心に二重三重の鎖を巻いて、そんで心の奥底に沈めたんだ)


 けれど、それが再浮上してきたのは、いつ頃のことだろうか。


 ――泰葉の恋歌を聞いてから?


 ――泰葉が虎熊の思いに応えた時?


 ――どちらにしろ、遅いことだ。


 気づいた時には、泰葉の大願成就は果たされ、酒呑の元には、不完全燃焼で、鎖ばかりが巻きつけられた不恰好な感情が浮いているばかりだ。


 彼は自虐するかのように、自身の顔をくしゃりと手で覆う。


(気づいた時には、終わっちまってた。どっちも大切なことだったってことに、俺は最後まで気づけなかった……)


 もっと自分に正直になっていれば、違う結末だって待ち受けていたのかもしれない。


 だが、もう遅い。覆水盆に返らずだ。


「はぁ……」


 深く嘆息を吐き出し、細く長く息を吸う。木々の草いきれが肺の奥にまで届き、酒呑はいっそ、このまま森と同化してしまえたらな、と馬鹿な思いに身を包む。


「このまま消えちまえば、この忌々しい気持ちも消えてなくならねぇか? というか、いきなり消えちまったら、皆心配するかな? 泰葉も心配してくれるかもな」


 馬鹿馬鹿しい妄想。そんなものに逃げねば、やっていけぬ自分に、心の弱さを覚える。あまりの弱体ぶりに、思わず笑いがこみ上げてきてしまうぐらいだ。


「へへっ――、らしくねぇ。けど、これが惚れた弱みってやつだ。情けなくて結構」


 そう、惚れた。


 いや、惚れて『いた』。


 だが、その想いはもう心の内に秘めて、封じて、決して表に出してはならぬものだ。それは、泰葉の内に溜まる『世に出してはならぬもの』と同等の重さ――、いやそれ以上のものだ。鎖を今度は、四重、五重に巻いて心の奥底に沈めなければいけない。


 風が柔らかくそよぎ、酒呑の髪先を僅かに散らす。


 冬だというのにこの生温さはどうか。どこか泰葉の笑顔に通ずるものがあって、酒呑は思わず涙が出そうになった。


「あぁ、くそ! 切り替えろ。どの面提げて、御殿の頭領なんてやってると思ってんだ? こんなものに動じてどうする? もっと堂々としてねぇと下が納得しねぇだろう?」


 厳しい言葉を舌の上に乗せる。


 だが、その言葉に応えるのは並大抵のことではない。


 体の隅々が反抗するかのように言う事を聞かず、酒呑はそのままずるずると木の幹を滑り落ちるようにして、沢辺の石の上へと座り込んでいた。


「分かってるよ。そんなことは誰よりも分かってんだ。――けどっ! 頭領である前に人間なんだよ! 凹む時だってあるってんだよ、畜生!」


 石に当たる臀部が痛かったが、それが自分の罪滅ぼしのような気がして、酒呑はむしろ感謝したいぐらいであった。


 ――茫洋と時間を過ごす。


 冬にしては温かい日差し、温かい風。気温は少々肌寒かったが、時を過ごすには何の問題もない。今はただ、何も考えずに過ごすだけの時間が欲しい。雲の流れを見て、鳥の囀りを聞き、川のせせらぎを聞く。


 本来なら微睡んでいても可笑しくはないが、頭の中がぐるぐると回っていては微睡めない。


 あぁ、これからどうしたものか……。


 どういう顔をして、泰葉に会えばいいのか……。


 そんなことを悶々と考える。


 すると、彼の思考の渦を邪魔するかのように、微かに草を踏む音が聞こえる。


(野の動物の冬眠でも起こしたか?)


 見やるが違う。それこそ、冬眠明けの熊に出会った方がマシであっただろう事態の発生だ。


「あ、酒呑さん!」


 御殿に帰らぬ酒呑を心配したのか、息を切らせた泰葉が山道を登ってくるのが見える。


 ……逃げ出したい。


 酒呑は心底そう思った。


 だが、泰葉を前にしていきなり逃げるというのはどうなのか? 逃げることで、泰葉の不審を買うことにはならないか?


 疑念の渦が邪魔をして、正常な判断ができない。


 酒呑は強ばる体で、泰葉の到着を待つことしかできなかった。

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