返歌2
朝も早い内から各部屋を巡って、恋文の返事を送り届ける泰葉。
そんな彼女の足は冷たい廊下を歩き続けているせいか、朱を通り越して紫にまで染まっている。だが、それでも笑顔を崩さずに各部屋を巡るのは内に猛るものでもあるのだろうか?
寒さを感じさせぬ強さは、逆に芯の強さを感じさせた。
そんな様子を廊下の角からひっそりと観察していた酒呑は「あぁ、もう」とばかりに気持ちをやきもきとさせる。
気分はさながら子を見守る親の気持ちか。変なところで意地を張らなくても良いからと言わんばかりに唇を強く噛み締める。
(何で下沓を履いてねぇんだ! この季節だと寒いから履けとあれほど言っただろう!? 貴族の屋敷と染め屋からかっぱらってきた奴がまだ残っていたはずだぞ!?)
苛立ちを抱えて一人歯軋りをしながら、周囲を窺う様子は不審者以外の何者でもない。
そんな酒呑の見ている目の前で、文を配り終えたのか、部屋より泰葉が出てきていた。
遠目からでは、彼女の持つ色紙の枚数がどこまで減ったかは分からないが、あの部屋で文を配っていたことは間違いあるまい。
彼女に気付かれぬように気を配りながら、酒呑は泰葉の去った後で部屋を訪れる。
「おう、俺だ。入るぜ」
「……へ、大将?」
突然の闖入者の登場に面食らう男たち。
だが、そんな男たちに気を悪くするでもなく、酒呑は素早く室内に視線を走らせる。
室内は男たち三人の相部屋らしく、三つの傷んだ畳の周りに散乱するようにして、瓶子が幾つも無造作に転がっていた。
そんな部屋の丁度中央辺りに座する男。
酒呑の突然の乱入に居住まいを正すわけでもなく、緊張するわけでもなく、驚いたわけでもないその男は、ただただ呆然とした表情を浮かべているようだ。
その両手には、男むさい部屋とは縁遠い華やかな色をした色紙が握られており――。
「うむ、分かった。邪魔したな」
「えぇっ!? 一体、何しにきたんですかい!?」
狐につままれたような顔をして、酒呑の背を見送る男衆。
確かに、これでは何をしにきたのか、彼らにとっては見当もつかぬことだろう。
だが、これこそが茨木が酒呑に授けた策でもある。
その策の名こそ、智慧の策だ――。
物事の本質を見抜くには、一箇所を見るだけでは足りぬことが多く、広く多くを見ることで初めてそれを知ることができるという。
茨木の授けた策とは、まさにそれである。
泰葉の動向ばかりに注視していた酒呑とは違って、茨木は泰葉以外のものに注意を向けろと彼を諭したのだ。
泰葉ではなく、泰葉から文を受けたもの――。
それに注意を払うのだ。
それならば、直接関わらずとも文を受け取った相手の反応により、返事の中身がようとして知れるのだという。
なるほど。つまり相手が落胆すれば、快い返事ではなかっただろうし、歓喜に満ち溢れたのであれば、それは例の恋歌であると知れるということか。
まさに、広く見ることで物事の本質に迫ることができるわけだ。
酒呑はその策に素直に感心し、早速とばかりに実行に移していた。泰葉を追い、彼女に見つからぬように後を尾け、彼女の行く先々を巡る。
そうして、人々の反応を探っていくというわけだ。
茨木の授けてくれた策は確かに効果的ではあった。
だが、この策には、ひとつだけ気をつけねばならぬ点がある。
そう。この策の留意点――。
それは、泰葉の姿を決して見失ってはならぬということであった。
彼女が誰に文を届けるのかが分からない以上、情報の発信源が彼女しかいないのだ。
だからこそ、彼女を見失うと相手が誰か分からなくなるばかりではなく、反応すらも知れなくなってしまうという。
では、既に文を届けてしまった相手は追えぬのかと酒呑が尋ねると、茨木は「然り」と頷く。
そして、こうも続けたのだ。
「本命は恐らく最後に届けるだろう。酒呑の君が知りたいのが本命だとすれば、最後にこそ留意すべきだ。それまでのものは、恐らく全て断りの文であろうからね」
なるほど、と酒呑は思う。
確かに、気持ち浮く恋歌を最初に相手に渡し、気持ち沈む文を後から渡して歩くというのもおかしな話だ。
いや、可能性としてはあるかもしれないが、少なくとも普通はそうしないだろう。
まさに、人の心情を知り尽くしたかのような茨木の智謀に、酒呑は素直に敬意の念を抱いたことを告げる。
だが、彼女は得も言われぬ表情を引っ提げると「君にこそ、人の心情を計る慧眼を身につけて欲しかったのだがね」と拗ねた表情を見せていた。
そんな茨木に、酒呑は不思議そうな顔を向けることしかできない。
結局、酒呑は茨木の意を解することはできずに、泰葉を追うことを優先する。
何せ、こちらは時間との勝負だ。
余計な詮索に時間を費やしている暇はないだろう。
(お、いたか)
室内から出てくる泰葉の姿を見かける。
どうやら、返事も残りわずからしく、持っている色紙の枚数も数えるほどに減っているようだ。
あれだけの枚数なら、あと二、三人に渡せば終わりといったところか。
酒呑がどうにか間に合ったとばかりにほぅと息をつく中、泰葉の姿が廊下の角を曲がって奥へと消えていく。
どうやら、次の部屋に向かったらしい。
それを確認してから、酒呑は先程泰葉が出てきた室内の様子を確認するべく、踏み込もうとする。
だが、いざ踏み込もうという段になって、酒呑の目の前で遣戸ががらりと開いていた。
「うぉっ!?」
機先を制された格好で酒呑が鼻白んでいると、奥から一人の女子が廊下へと歩み出してくる。
御殿に住む、都から拐かしてきた娘子の一人。
彼女は、まるで酒呑の姿など映っていないかのように嘆息すると、胸元で静かに両の腕を抱く。
「あぁ、泰葉様、どうして……」
そして、さめざめと泣く。
その胸元には二枚重ねの色紙の姿があり、酒呑は何か見てはいけなかったものを見たような気がして、無言のままにその部屋を後にしていた。
(人の趣向は人それぞれ……。あえて口は出さねぇぞ。というか、俺にはどうにもできん……)
若干、苦い思いでそんなことを思う。
兎も角、結果が知れた以上、泰葉の後を尾けることの方が最優先である。長居は無用とばかりに、酒呑は廊下の奥に消えた泰葉の後を追う。
その後も、彼女はせっせと部屋を回り、一人一人に丁寧に返事を返していく。
結局、その後、三度の部屋訪問を終えた頃合いには陽も高く昇っており、陽気も上々となっていた。
最早、下沓もいるまい。
ほっと胸をなで下ろす一方で、未だ晴れぬ部分もある。
それは、泰葉が未だに件の恋歌を渡した様子がないということだ。
残りの色紙の枚数は二枚。本命に渡すのだとすれば、これが最後だ。
だとすると、これが本命か?
酒呑は息をひそめて、彼女の動向を見守る。