返歌1
山際が朱に染まり、それを待ち侘びていたかのように鳥たちの囀りが一斉に周囲に広がっていく。
明けて、翌朝の鬼御殿。
巨大な寺社を彷彿とさせるその建物は、冬の柔らかな日差しに笑顔を見せるようにして、柔い色合いに染まっていた。
黒い屋根瓦が薄鈍色に、夜露に湿った柱が薄橙に、乾いた土壁が薄香に。影は自らの姿を縮ませ、暗色ばかりが支配した時間帯は一時的にだが閉幕の緞帳を下ろしていく。
そう。時の流れはいつだって万物自然の理だ。
夜が過ぎれば朝がくる。
だが、それに気づけないものも中には存在する。
「待て! もう朝かっ!?」
悶々とした気分を抱えていたがために目が冴え、眠り損なったもの――、そういったものにとっては夜は無きに等しく、いつの間にやら朝が訪れてしまうものだ。
鬼御殿の一番奥。一等立派な寝所で一晩を過ごした酒呑は、明けた夜に気づいて悲鳴のような声をあげる。
それもそのはず、彼は床に就いてから、今の今まで微睡みの淵にさえも立てておらず、そのままの状態で一晩を過ごしてしまっていたのである。
悲鳴も漏れるわけだ。
「えぇいっ、くそっ!」
彼は自身のさもしい心胆に歯軋りする思いで唇を噛み締めると、乱暴に頭を掻き毟りながら、布団から抜け出す。
「何だってんだ、一体!」
眠れなかった理由――、それははっきりしている。
泰葉の詠んだ恋歌、あれが原因だ。
あの恋歌が一体誰のもとに届くのか。
それを考え始めたら、もう止まらなかった。
あれやこれやと、この四ヶ月のことが脳裏に浮かび、一番仲の良かったのは誰だとか、あれは本当に恋歌だったのかとか、疑念が岩清水のようにして湧き出してくるのだ。
そんな疑念にいちいち納得のできる答えを探し、答えが見つからぬものに対しては推測で補完し、そんなことを繰り返す内に気づけば明け方になってしまっていたのである。
それでも、彼の心は未だに晴れない。
(くそっ、何でこんなに泰葉の恋歌が気になる……)
乱暴に頭を掻き毟っても、答えは出てこない。
分かっているのは、自分が思っていた以上に他人の幸せを祝福できない人間だということだ。
まさに、さもしい心胆という奴だ。
彼はばつの悪そうな表情を引っ提げる。
「くそ、女の腐ったのじゃあるめぇし、悶々としてても仕方ねぇ!」
気持ちを切り替えて衣を脱ぎ始める。
日が差しているといっても冬の朝は厳しい寒さだ。
普段ならば、起きる前に火桶に火が入っており、部屋もそれなりに温かいのだが、今朝ばかりは早く起きすぎたか、それもなされていない。
脱いだ衣をそのままに、ひやりと冷たい直垂に袖を通し、うっと呻きながらも身なりを整える。
凍えるような寒さに自然と口がへの字を描くが、そこは我慢だ。酒呑は、それでも早朝の空気を楽しもうとばかりに、縁側に面した遣戸を開け放つ。気分転換には悪くないはずである。
「おう、いい天気だ」
外の景色は、酒呑が昨晩に予想した通りの気持ちの良い晴れ模様。彼はくまのできた目元を擦りながらも、気持ちのよい朝だとばかりに笑みを浮かべてみせていた。
「清々しさに心も踊らぁな」
「あ。おはようございます。酒呑さん」
ぎくり――。
そんな笑みを浮かべた矢先に、酒呑の動きがぎこちなく固まったのは仕方のないことか。
今一番会いたくないであろう人物に不意打ちされれば、誰だってこうなる。
彼はなるべく動揺しているのを悟られぬように自身を律しながら、「よぉ」と縁側を歩く少女に向かって軽く手を上げて見せていた。
いつも通りの白い衣装に柔和な笑顔を浮かべ、冬の穏やかな陽光に目を細める姿は、月明かりの下でなくとも輝いて見える。
昨晩よりも美しさを増して見える泰葉は手に束となった色紙を抱え、縁側を歩いていた。恋文の返事を返しにいくであろうことは、酒呑でなくてもすぐに気づく。
「もう返事を書き終えたのか? 早ぇな」
「あんまりお待たせするのも気が引けましたので、少しだけ頑張らせて頂きました」
少し冗談めいた顔をして、腕まくりをする泰葉。
その仕草に酒呑は思わず相好を崩す。
「そっか。それで、今から返事を返しに行くと?」
「はい。日中は何かとお忙しいこともあるでしょうから、なるべく早い方が宜しいかと思いまして」
「そうか。ふむ……」
酒呑は腕を組んで素早く考えを巡らす。
ここで上手く彼女の仕事を手伝うことができたのなら、隙を見て、例の恋文の届け先を知ることができるかもしれない。
酒呑はなるべくわざとらしくならないように、慎重に言葉を選ぶ。
「何だったら、俺が配って回ってやろうか? 貴族の間じゃ、家人が間に入ってやりとりするのが普通なんだろ?」
形式に則ってみてはどうかと提案してみるが、勿論、その真意は別にある。配送役を買ってでて、あわよくば泰葉の真意を知ろうというのだ。
だが、彼女はやんわりとそれを拒絶した。
「いえ、私などに折角出して頂いた恋文です。ひとりひとりに丁寧にお返事を返さねば誠意は伝わりませぬ。私ひとりで大丈夫ですから」
「そ、そうか? あぁ、いや、そうだな。うん」
しっかりとした泰葉の意見に、生半な策ではどうにもならぬことを感じて酒呑は怯む。
とはいえ、知りたいと思う気持ちも本物だ。
何とか本意を引き出せぬかと考えを巡らせるが、十分に睡眠も取らぬ頭ではろくな策も思い浮かびはしない。
逆に泰葉は酒呑の顔を覗き、「あら」と声をあげていた。
「酒呑さん、目の下に酷いくまができていませんか?」
「なぬ!?」
「あの後、まさか寝ていなかったとか?」
素朴な疑問。
だが、酒呑には肺腑を抉るが如き鋭い質問だ。
慌てて顔を背けたものの、誤魔化しきれまい。取ってつけたように言葉を重ね、煙に巻こうと企てる。
「寝ていたに決まっているだろう!? あぁ、そりゃあ、もう轟々といびきをかいて爆睡よ! 俺の睡眠は誰にも邪魔されてねぇし、起きていたなどということがあろうはずもない!」
「でも、くまが――」
「くまなんてねぇ! 見間違いだ!」
「いいえ、あります! ちゃんとこちらを向いて下さい!」
「いいや、ねぇんだ! ねぇったらねぇんだよ!」
回り込んで覗き込もうと試みる泰葉の両肩を酒呑は両手でがっちりと固定してみせていた。
そのまま膂力の勝負にもつれ込むが、さすがに泰葉の頼りない力では酒呑の力には抗しきれないか。
荒い息をついて、泰葉はぐったりと力を抜く。
「うぅ、絶対にくまがあるのに……!」
「しつこい奴だなっ! ねぇったらねぇんだよ!?」
「でしたら、和鏡でも見れば宜しいでしょう!? あなたの目の下にくまがついているのが、くっきりはっきり見えますからっ!」
「あー、聞こえない、聞こえない!」
「子供ですか! あなたは!」
怒られる。
やがて諦めたのか、後退する泰葉に酒呑は腕の力を緩めることで応えていた。
泰葉は酒呑の手から逃れると、「全く」とばかりに嘆息を吐き出す。その顔はいい加減げんなりとしていた。
「何故そこまで意地を張るのですか? 理解できません」
酒呑は答えない。
その因が、泰葉にあるからだとはとても言えないからだ。
不機嫌そうに押し黙る酒呑を前にして、泰葉は「それでも、くまがついていますから」と頑として譲らなかった。この辺の意固地さは生来のものか。事実を歪めることを良しとはしない。
「分かった、分かった」
さすがにそこまで言われると、酒呑も折れざるを得ないか。仏頂面を提げながら、そもそもこんなことに意地になってどうするのだと思う。
だが、その言葉で一応の決着はみたということらしい。泰葉は満足したのか、笑みを浮かべてみせる。
どうやら、酒呑がくまを作った理由にまでは頓着するつもりはないようだ。自身の意見が通ったことに満足した表情を見せる。
「分かればいいんです。分かれば」
「というか、お前、こんなところで道草くっててもいいのか? 文を届けるんだろう?」
「あっ、そうでした!」
詐欺師としての才覚は酒呑の方が上か。
ここぞとばかりに気を逸らし、泰葉の興味を文の方へと向ける。それだけで、泰葉は酒呑のくまについて興味を失くしたようであった。取り急ぎ、束ねていた色紙を両手で揃え、慌てたように来た道を戻り始める。
どうやら、酒呑に会うためだけに縁側をここまでやってきたらしい。
「すみません、酒呑さん。急ぎますので話はまた後で」
「おう。頑張れよ」
「はい!」
小気味良い返事を残して泰葉は去っていく。
その後ろ姿を見つめながら、酒呑は自分の中に鬱々とした思いが広がっていくのを自覚していた。本音を吐けば、このまま泰葉に付いていき、あの恋歌を誰に渡すのか知りたい。
だが、それを彼女は良しとはしないだろう。
いや、そもそも酒呑自身も他人への返歌を覗こうとすることに抵抗があるのだ。吹っ切れるには至らない。
それでも、彼は泰葉のあの恋歌が誰のもとに渡るのか気になって仕方がなかった。
ここまで焦るのは、藤原邸襲撃の日に、男に鳩尾を蹴られて以来だ。
生死の境を彷徨うぐらい緊張と圧迫感を覚えている。
……正直、気持ちが悪くて吐きそうである。
(昨晩に詠んだ句が誰のもとに届くのか? それだけが知りてぇ……。くっそ、どうすりゃいい……)
歯軋りする思いでいると、自身の部屋の奥の御簾が音もなく上がり、籠に炭を入れて運んできたらしい茨木と視線が絡む。
朝も早くから甲斐甲斐しく働く才女の登場に、酒呑は天意の訪れを見た気がした。
「おや珍しい。酒呑の君がこの時間帯に起きているとは……。いつもなら眠っている時間だろうに」
「まさに渡りに船」
「え? なんだい、急に?」
「いいから知恵を貸せ、茨木」
「へ? いや、それより酒呑の君、目の下に酷いくまができて――」
強引に茨木の腕を取り、部屋の片隅に連れて行く酒呑の姿はまるで拐かしだ。
鬼御殿一の知者に知恵を借り受け、鬼御殿の悩める頭領は今まさに解決の糸口を辿り寄せようとするのであった。