深夜の密会2
「よく分かりません」
「本当にそうか?」
泰葉の横顔を覗き込むと、彼女はそのままの姿勢で嘆息をひとつ吐き出していた。その様子を見る限りでは、全く答えが出ていないというわけでもなさそうだ。
「酒呑さんは、そうやって何でも見透かそうとするから嫌いです」
「何でもは無理だ。そんな慧眼を持っていたなら今頃は坊主になってるからな」
酒呑が苦笑いを零すと、つられて泰葉も笑う。
だが、その笑みも長くは続かない。
「でも、よくわからないのも確かなのです。酒呑さんが私に伝えたかったことは何なのか。今でもよくわかりません」
「そうか。なら、質問を変えよう」
酒呑は泰葉の美しい横顔を見ながら続ける。
「あの時、俺が怒った理由――、それが分かるか?」
「それは……」
記憶の糸を手繰るようにして、泰葉が口を開く。
「私が命を粗末にしようとしたことに怒った?」
「俺がそれほどまでに親切心溢れる男に見えるか?」
逆に疑問で返すと、泰葉は遠慮なく首を横に振る。
「違いますね。あなたはそういう人じゃない」
「そういうことだ」
口元に手を当て、泰葉は熟考する。
そして、彼女は記憶の奥底を掘り返すようにして、その言葉を口に出す。
「私が存在してはならない存在だから、生きていてはならないと言ったことに、怒ったんですか?」
まさか、という表情を貼りつける泰葉。
だが、そのまさかである。
酒呑は鷹揚に頷く。
その表情は、いつの間にやら戦場で見せるような鬼の如き威圧感を放っていた。静かな怒りを滲ませ、体躯から凄みが噴出するかのようだ。
酒呑はそんな自分を律するかのように、婉曲に話を進める。直線的に進めていては、その怒りを泰葉にぶつけかねないと判っていたのだろう。訥々と語る。
「なぁ、泰葉。人って一体どれぐらいの数が存在する意味を持って産まれてくるか、判るか?」
「それは……」
泰葉は答えようとして言葉に詰まる。
その様を見て、酒呑は「あぁ、やはり」と思う。
やはり、彼女は周りを見ていなかったのだ。彼女はただ自分の世界に閉じ篭り、自分だけが必要のない存在だと断じ続けてきただけなのだから。
だから、人という種全体で見た時のことなど及びもつかない。
いや、昔の酒呑だって、今の泰葉と似たようなものだっただろう。
そんなことを考えるようになったのは、鬼たちの命を預かる立場になってからだ。責任が出て、沢山考えるようになって、京の貴人と自分たちと一体何が違うのだと、そんなことばかりを考えるようになった。
「意味を持って生まれてくる人間なんて、本当一握りだけだと俺は思うぜ。帝だとか、貴族の長男だとか、その程度じゃねぇのか? 大多数は多分、いらねぇ存在なんだよ」
吐き出された吐息は白く淡く、宵闇の中に吸い込まれるようにして消えていく。それは、どこか命の儚さを訴えかけるかのようであった。
「生まれ落ちた時分から、存在する意味を持って産まれてきた奴なんざ殆どいねぇ。ましてや、俺らみたいな『賊』は社会の底辺の最たるもんだ。存在が害悪でしかねぇ。そんな連中に存在する意味なんてあると思うか?」
考えてきた。ずっと。
そして、辿り着いた結論はこうだ。
貴族たちは必要な存在で、酒呑らは言わぬもがなの必要のない存在。
だから、こうも生活に差が出るのだと――。
要らぬものに、配慮する世界などない。
酒呑は視線を大地に向ける。
霜の掛かった露草が白色の月明かりに照らされて、銀色に光っていた。こんな野草さえも光ることができるのに、彼らはそれすらもできない。
酒呑はどこか自嘲気味に笑う。
「泰葉は言ったよな。『必要のない存在だから殺せ』って。あれ聞いた時な、俺ァ頭ン中が真っ白になっちまった。ふざけんなよ、ってな――。だってそうだろう? 俺は今まで『存在する意味がねぇもん』を守りたくて頑張ってきたんだ。それこそ、自分なんてどうでもいい。こいつらを――、鬼御殿の連中を守れりゃ、それでいい。そう思ってやってきたんだ。……けれど、そこにお前の一言だ」
泰葉を威圧するかのように鋭い視線を向ける。
ともすれば、泣きそうになる気持ちを彼は抑える。
彼女の一言は、それこそ、どんな剛勇を誇る男の一太刀よりも強力無比の威であったからだ。
「必要のない存在だから殺せって――、必要のない存在だから死ななくちゃいけねぇのか? だったら、俺らはどうなるんだ? 俺らこそ、その最たるもんだろう? けど、俺らは生きている。俺はお前に『お前たちが今までやってきた苦労は全て水泡で、お前たちも全員死ぬべきだ』とそう言われた気がしたんだ」
「わ、私はそんなこと……っ!」
「分かってらぁ。お前にそんな気はなかったんだってことぐらい」
彼女の中には、彼女だけしかいなかった。
それは酒呑にも分かっていたはずだ。
だけど、少女の一言がものの見事に真理を突いた気がして、酒呑は無性に悲しかった。
全てが無駄で、無意味で――。
彼がやってきたことは、釈迦の掌の上で馬鹿のように踊っていただけだなのだと言われたような気がしたのだ。自身の努力が、苦労が完全に否定された時、人は気落ちするか、憤怒に身を震わせる。
酒呑は後者だった。
「けどよ、一度噴火しちまった俺の気持ちは収まらねぇ。だから、俺はお前に見せつけてやりたかった」
なにを、と泰葉の視線が訴えかけてくる。
無駄で、無力で、無意味――。
そう言われたからこそ、見せねばならぬと思った。
本当に、無駄で、無力で、無意味なのか――。
彼女に見せつけねば、気が済まなかった。
「存在する意味のねぇ奴らでも日々を一生懸命に生きてるんだってことを、お前に見せつけたかったんだ。存在する価値なんかなくても全力で生きてるんだってな。……それを、見せつけてやりたかった」
泰葉の目が驚きに丸くなる。
彼女の心中は如何ほどのものか。
最初は、ただ拐かされたことに文句を吐き、決して彼らを認めようとはしていなかった少女は、何かを深く考え込むかのようにして視線を落とし、そしてぽつりと言葉を零していた。
「酒呑さんが言いたかったのは――」
彼女は酒呑の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。
「存在する価値なんてなくても、生きていても構わないってこと、なんですか?」
ふいに、泰葉の声が震える。
見やれば、彼女の瞳には涙が溜まっているように見えた。
そうか、と酒呑は気づく。
彼女の半生はほとんどが器としての生活。
その囚われの生活の中で、彼女は一体何度自分が生きている価値があるのかと自問してきたのだろう。
ひとりで意固地になって、苦しんで、悶えて――。
そんな彼女の傍らには寄る辺となる友もおらねば、家族もいない。ただひとり、闇に吐露するのみ。
暗い洞の奥底で苦しみ、縋るようにして、自分の死を望んでいた生活。そこに、希望などありはしなかったし、淡き期待など抱こうはずもなかったはずだ。
そんな生活が、どんなに辛いことかと酒呑は考える。
考えたところで、彼女の辛さの少しさえも分かち合うことはできない。酒呑はそれが少し悔しくもあり、悲しくもあった。
何故なら、守るべきものに対する無力感をひしひしと感じてしまったのだから――。
「俺はよ、こうも思うんだ」
瓶子の酒を無理に喉に流しこみ、酒呑は言う。
「俺たちには生きている意味なんてねぇけど、その意味は後からでも作れるんじゃねぇのかな、って――」
「後から、作れる……?」
「あぁ。俺たち、大江山の鬼は市井から見たら、そりゃあ必要のねぇ存在だろう。けどよ。俺から見たら、茨木、金熊、虎熊、熊に星熊……、みんな家族で仲間なんだ。誰が欠けても成り立たねぇ。俺にとってはかけがえのねぇ存在なんだよ」
世間という広い世界で見れば、彼らは確かに不必要な存在だ。存在そのものが悪。この世から消え去っても何ら問題のない存在だろう。
けれど、酒呑という狭い世界から見た時、彼らは確実に必要な存在となってくる。
存在の意義とは、人と人との関わり合いで変わるのだ、と酒呑はそう言いたかったに違いない。
遠く、夜空を見上げる酒呑。
彼は酒を傍らに置き、時と同化するかのようにゆっくりと呟く。呑んでいるせいか、今はこの寒さが少しだけ心地良い。
「人と人が触れ合って心を許しあえば、そこに多分必要性が生まれてくる。だから、人は存在する意味を産まれた後からでも作れる。俺はそう思うんだ」
「それで後からでも作ることができる、ですか……」
得心いった表情で呟く泰葉。
けれど、泰葉のその表情は硬いままだ。
そんな泰葉の懊悩を全て見透かしていたかのように酒呑は顔いっぱいに優しい笑みを浮かべてみせていた。
「お前もだぜ、泰葉。お前も俺たちには――、いや、俺には必要な存在なんだ」
「酒呑さん……」
「だからよ、お前はもう自分を否定することはねぇ。器だの何だのと関係ねぇ。ここに存在していて構わねぇんだよ」
「でも、私の内には世には解き放ってはならぬものが……」
「関係ねぇ。千年も万年も先のことなんざ知るかってんだ」
「だって、だって、私は器で、穢れた血が流れていて、それに、それに――」
「泰葉は泰葉だろう? それ以上でもそれ以下でもねぇじゃねぇか。俺がお前を必要としているんだ。それだけじゃ不満か?」
「そんなこと……」
泰葉は言葉に詰まる。
その眦に溜まった辛さの雫は、いよいよをもって大きくなり、今にも零れ落ちそうなほどに膨らんでいた。
震える声で、蚊の鳴くように彼女は尋ねる。
「いいのでしょうか……? 本当に……? 私は、ここにいても……?」
「構わねぇよ――、お前はここにいろよ」
彼は口元に太い笑みを刻んで泰葉を見やる。
「それとも俺に必要とされるのは嫌か?」
「そ、んな、こと……」
彼女の人生は器としての人生であった。
得体の知れぬ何かを延々と奥底に溜め込む無機質なもの。
当然、人との関わり合いなんてあろうはずもない。
彼女は自分を否定し、自分の存在が必要ないと思い込み、ただただ自分が割られるのを待っていた。
そして、酒呑に拐かされた後も心のどこかで器である自分に言い聞かせてきたのだ。
――私は死ななければならない存在。
――災厄の器として割られなければならない存在。
けれど、酒呑に人として扱われて生きる内に、人としての生を謳歌する喜びを知ってしまった。
必要のない存在だから、死ななければならなかったはずなのに……。
なのに、器に戻ることを拒んでしまった。
心の片隅で、いつだって声がする。
――お前が歩む道の先に待っているのは絶望だけだ。
――それ以上行っても仕方がない。
――割られてしまえ、と。
確固とした絶望の未来が用意されているものに、夢や希望など持てようはずもない。
途方に暮れていたはずだった。
だというのに、希望は突然目の前に現れた。
その希望は少々強引で、いい加減で、色々と呆れることも多かったけど、とても頼りになって、仲間思いで、優しい――。
ほろりと大粒の涙が泰葉の頬を伝う。
「馬鹿、泣く奴があるか」
酒呑はしどろもどろになる。
その様子が可笑しくて、泰葉は思わず泣き笑いの表情になる。
嬉しかったのだ。
人に求められ、人に必要とされる。
それは、人と触れ合えたからこそ、他人に認められたからこそ、人として扱ってもらえたからこそだ。
もう器じゃない。お前は人間なんだぞ、と泰葉は酒呑に言われたような気がした。
「すみません、嬉しくて、つい……」
泰葉の両の眼から溢れ出る涙が止まらない。止め処なく溢れる滂沱の雫は縁側の床板を濡らし、夜気に白い湯気を立ち昇らせる。
「やれやれ、困った奴だ」
酒呑は笑うと、「そんなに嬉しいのなら、泣くんじゃなくて、笑っとけ」とおどけてみせる。
彼女は言われた通りにしてみるが、どうにも上手くできない。困ったような笑みを零し、それでも、どこか腫れ物が落ちたかのようなすっきりとした気概が伝わってくる。
「酒呑さんは――」
「あぁ」
「がさつで、適当で、強引で、わがままで、唯我独尊で、傲岸不遜で――」
「良いところが全然ねぇな」
「――でも」
「でも?」
彼女は静かに目を瞑り、そっと胸に手を当てていた。
それは、その気持ちを胸の奥にずっと留めておくかのように酒呑には見えた。
彼女の双眸がすっと見開く。
「しんしんと内に積もりし恋心――、寂しき冬に春の訪れ――」
歌?
酒呑は虚を突かれたかのように呼吸を止め、思わず目を丸くして泰葉を見つめる。
何故ここで歌が出てくるのか?
さっぱり分からない。
「どうでしょうか?」
「へ? あ、いやぁ……」
酒呑に歌の良し悪しを聞かれても答える術がない。
彼は文化人ではないからだ。
そんなもの聞かれたところで返答に困る。
「えぇと、まぁ、いい歌なんじゃねぇか……?」
相も変わらずのうわばみ具合で酒を喉に流しこみながら酒呑は尋ねる。
「それ、返歌か?」
「えっ!?」
「いや、変なこと聞いたな。悪かった」
酒呑は慌てて取り繕う。
恋文に対する返歌を詮索するほど野暮なこともあるまい。なかったことにしてくれ、と彼は笑って泰葉に謝っていた。
だが、当の泰葉は不満顔だ。
その理由にさっぱり合点がいかぬ酒呑は「そんな顔するな」と彼女ををたしなめていた。
だが、泰葉の機嫌は一向に直る気配を見せない。
困ったものだとばかりに酒呑は頭を掻く。
「お?」
びゅうっと二人の間を一際強い北風が吹き抜ける。
泰葉は長い髪を押さえ、酒呑は瓶子に砂が入らぬように口を片手で塞ぎながら、外の寒さを思い出したかのようにぶるりと身を震わせる。
どうやら、長居し過ぎたか。
長年飲まず食わずでも生きられる物の怪とは違って、酒呑は人の身。この寒さの中で延々と付き合っていては身ももたない。彼はゆっくりと立ち上がる。
「さてと……」
「酒呑さん……?」
「あんまり長居して、お前の邪魔をするわけにもいかねぇからな。俺はもう寝るわ。お前も無理して、体調崩すんじゃねぇぞ?」
「え、えっと、あの……っ!」
「ん?」
「…………。お、おやすみなさい……」
赤い目をして、どこか縋るような目つきで見る泰葉。
そんな目で見られると、去りがたい思いに駆られるが、それでは恋文を送った男衆に申し訳が立たない。
彼は後ろ髪ひかれる思いを飲み込んで、口元に笑みを刻むとひょいと瓶子を片手に縁側を歩く。
「明日になったら、返歌はどんなあんばいになったのか聞かせてくれよな?」
「は、はい……。構いませんが……」
「んじゃあ、――っと、ひとつ言い忘れてた」
「え?」
彼は泰葉の背後に回り、自身の部屋に帰る道すがらで振り返ると、得意げな笑みを顔いっぱいに広げる。
「なれただろ?」
「えぇっと?」
「家族に」
「あ……。――はいっ!」
今度は泣き笑いの表情とはならずに、満面の笑みを浮かべる泰葉。
酒呑はそれを確認すると、ならばよしとばかりに頷き、去っていく。
甲高い音で軋む床板は酒呑の足先の感覚を失わせるほどに冷たかったが、彼の心は十分過ぎるほどの暖かさで満たされていた。
上機嫌で鼻歌などを口ずさみながら縁側を歩く。
(しんしんと内に積もりし恋心、寂しき冬に春の訪れ、か……)
恐らくは彼女の心情を詠んだものなのだろう。
しんしんと雪のように恋心が積もっていき、寂しき冬のようであったような自分の身にも春の訪れを思わせる暖かい恋が訪れた――。
恐らくは、そのような意味合いのはずだ。
だが、待てよ、と酒呑はふと鼻歌を止める。
(あれ? 恋歌じゃねぇの、これ……?)
泰葉が誰かに靡くようなことはないだろうと高を括っていた分、酒呑の驚きは強い。恐らくは、恋文の返歌として作ったものなのだろうが……。
(恋文の返歌に恋歌を返すということは、つまりは、そういう、こと、か……?)
もしかしたら、自分の発言で彼女の心境に変化でも訪れたのかもしれない。
だとしたら、喜ばしいことである。
酒呑は人知れず、うんうんと頷く。
泰葉が誰かと恋仲になるということは鬼御殿の中がまた少し明るくなるわけだし、泰葉をからかう要素も増えるわけだ。これは楽しいし、喜ばしい。……素直にそう思う。
(喜ばしいな。うん、喜ばしい。実に喜ばしい)
だが、思ったほどに酒呑の心は弾んでおらず、その様子に彼は戸惑ったように眉をひそめていた。
(あれ? 何だ? 喜ばしいことのはずだよな?)
胸に手を当ててみる。
動悸は思ったよりも早く打ち鳴らされ、確かに興奮しているように思える。
だが、酒呑の心情に占めるのは、靄がかったはっきりしない気持ちと、焦れるような息苦しいような、そんな気持ちの悪い思いだけだ。
(何だこりゃ? 苛立ちか? イカンな。呑み足んねぇせいで苛々してんのかもしんねぇ)
彼は小さく頭を振る。
集団をまとめるものとして、小さなことに苛立ちを募らせるのは悪しきことだ。それが分かっているからこそ、彼はそんな自分を恥じるかのようにして、瓶子を傾ける。
「ぷは! やっぱ、酒量が足んねぇとろくなことがねぇな、くそっ!」
寒さに鼻を擦り上げながら、酒呑は少しだけ不満そうな――、苛立ちが募った顔を見せるのであった。