正月の鬼御殿3
しばらくは、無言の時――。
黙々と、そして無駄なく調理が進んでいく様はどこか芸術品のように冒しがたい雰囲気ではあった。
だが、そんな雰囲気に耐えられぬ者もいる。
ぷはぁっと息の詰まるような空気に最初に根を上げたのは、やはり酒呑だ。竈の火の加減を抜け目なく行いながら口を開く。
「そ、そういや、茨木を呼ぶのに随分と時間が掛かったみてぇだが、一体何をやってたんだ?」
彼の場合、先程責められていた引け目もあるのだろう。雰囲気を改善しようと、当たり障りのない話題を振る。
「探すのに少々手間取りまして」
「あれ? 部屋にいなかったのか?」
「集会場の方におられました」
「何だって、集会場なんかに」
味噌汁の具材を手際よく用意していく泰葉は、酒呑の言葉に戸惑ったように視線を泳がす。男衆が文字を習っていたということを軽々しく言っていいものかどうか迷ったのだろう。
疑問符を浮かべる酒呑は、つい、と茨木に視線を向ける。
彼女は実に澱みのない手つきで包丁を扱いながら答えてくれた。
「皆に文字を教えていたのさ」
「あぁ、例の恋文を送ろうって奴か」
「恋文?」
泰葉に聞き返されて、酒呑はしまったとばかりに顔を強ばらせる。どうやら口が滑ったようだ。誤魔化そうにも、興味を惹かれたのか、泰葉が食いついて離さない。
「私は文字を習っているだけと聞きましたが」
困惑した表情を浮かべる中、隠しても仕方ないかとばかりに茨木が野菜を切っていた手を止める。
「そのままの意味さ。恋文を送りたいから文字を覚える。実に単純明快な理由だろう?」
「はぁ、恋文を送りたいから文字を……。なるほど。それで皆さん一生懸命に練習なされていたのですね。でも、一体誰に送られるんでしょう。田舎に好きな方でも置いてきておられるとか?」
「…………。待て。本気でそれを言っているのか、お前……」
どこか引きつった表情の酒呑。
茨木も無言の内に嘆息を吐き出す。
え、と泰葉は自分が何かとんでもない思い違いをしているのではないかと気づく。
「私、何かおかしなことを口にしましたか?」
「当人がこれだと、どうなるんだ」
「さぁ、ボクは知らないよ」
顔を見合わせる二人を見て、泰葉はもどかしい思いで包丁を握り直す。蚊帳の外に放り出された思いで煮え切らない。
「あの、本当にどういうことなのでしょうか?」
「お前、ひと月前の飲み会のこと、本気で覚えてねぇのか?」
「ひと月前……」
真剣に思い出そうとするが、全く心当たりがない。
その旨を伝えると、酒呑は落胆したかのように激しく肩を落としてみせていた。盗んだ宝刀が実は竹光でしたといわれたかのような落ち込みようだ。
「ひと月前の呑み会で、お前さんの貴族の頃の話になったじゃねぇか。そん時の話だ」
「貴族の頃の話……」
そういえば、酔った勢いで幼少の頃の生活を赤裸々に語ったような覚えがある。元々、泰葉は高貴な身のものと葛の葉の間にできた隠し子であった。その生活は当然の如く、人の目を避けるようにして行われてきたわけだが、そんな環境であろうとも貴人は貴人である。夕べに文字を習い、書を読み、夜中に星空を眺めて昼の世界に思いを馳せる。そして、何の苦も知らずに家人の用意してくれた四季折々の料理に舌鼓をうって、世の話を家人と交わす。まさに、せせこましく暮らす庶民とはかけ離れた生活だ。
それをほろ酔い気分の泰葉は、気の向くまま、問われるがままに答えて回っていた……、ような気がする。
だが、それが恋文と何の関係があるというのか?
(何か変なことでも、言ったのでしょうか)
泰葉は暫し考え込み、そして、思い出したかのようにちいさく「あっ」と声を漏らす。
そういえば、質問攻めにあっていた時に「恋文をもらった経験はあるか?」と聞かれた覚えがあった。それに対して、泰葉が出した答えは――。
「恋文をもらったことはありませんけど、もらえたら素敵ですよねって、あの時――」
やっと思い出したかと言わんばかりに酒呑と茨木が鷹揚に頷いてみせる。どうやら、二人ともその場にいたようだ。
「連中の目の色が変わったのはあの時だよな。これだ、と言わんばかりの食いつきようだった」
「天啓閃くといった感じだったからね。何か動くと思っていたよ」
「そ、そんなっ!? 素敵って、あくまで一般的な話であって――」
「好いた女の子に素敵だと言われて、やらない男の子がいようか。いや、いまい」
「全くその通り。――ボクは女の子だけど」
「そんな!? いえっ、そもそも何故私なのですか!? 他に素敵な方は沢山いらっしゃいます! 茨木さんですとか、他の姫君ですとか!」
それを聞いた酒呑が、どうということもないとばかりに肩をすくめてみせる。
「連中にとっては、それ以上にお前さんの方が魅力的に見えるんだろうよ。じゃなきゃこうはなってねぇ」
「そんな……」
どこか沈んだ表情で味噌汁の具材を切る泰葉。その手は精神の揺らぎと連動しているのか、大変危なっかしい。
酒呑はその危うい手つきに注意を喚起すると、次いで自分の使命を果たすべく炊飯に力を注ぎこんでいた。
それでも、まだ迷っているのか、泰葉の手元は定まる気配をみせない。
「わ、私なんて茨木さんに比べたら、周りに全然気配りもできていないですし、それに周囲の皆さんにはいつも迷惑ばかり掛けて、それなのに……」
「ったく――、ぐずぐずと。しかし、なんていうか、変わったな、お前」
「え?」
どこか優しい目つきをしている酒呑と視線が絡む。
自分では変わったとは思わないのだが、傍からみるとそう見えるのだろうか?
泰葉は鼓動が高まるのを感じるのと共に、少しだけ不安も覚えていた。
そんな不安を和らげるように、酒呑は微笑する。
「俺らと出会った頃は、不満そうな顔しながら、俺たちのことが理解できないって言ってたってのによ。今じゃ、周囲の方を優先させて、自分を卑下してやがる。ちっとは優しくなったんじゃねぇのか」
「そんなこと……」
言葉に詰まる。確かに言われてみれば、昔は自分が自分がという思いでいっぱいだったのに、今は周囲のことを気にかけてばかりいるような気がする。泰葉はそれでも抵抗するかのように口を開く。
「で、でもっ、私はここの生活に慣れるのに精一杯だっただけで! 別段、何も変わったことはやっていませんし! それに、もし本当に私が変わったのだとしたら、それは私のせいではなくて、多分、酒呑さんや皆さんのおかげであって――」
それを聞いた酒呑は呆気にとられながらも破顔一笑。
泰葉のその態度が既にそうなのだと言わんばかりに豪快に笑ってみせていた。
「そ、そんなに笑わないで下さい!」
「悪ぃ、悪ぃ。でも、だからかもしれねぇぞ?」
「え?」
「お前が好かれる理由だよ。人を立てる、佳い女だ」
泰葉の頬が茹でられた蛸のように真っ赤に染まる。彼女は気もそぞろに視線を中空に彷徨わせると、包丁を持つ手を止めて、助けてとばかりに茨木に視線を向けていた。
そんな茨木は牛蒡の皮を剥きながら、意地悪げに口角をつり上げる。
「酒呑の君の言う事にも一理あるね。ボクも男だったのなら、泰葉君のことは放ってはおかないだろうし」
「い、茨木さんまでっ!」
泰葉の頬の紅潮具合が加速度的に増していく。まるで衆人環視の中で辱めを受けているような気分になりながらも、手元の危うさはいつの間にやら影を潜めていた。持ち上げられたせいで、力みが消えたか。むしろ、今はふわふわと浮いたような気分のせいで、上手く力が入らないのかもしれないが。
「私なんかより茨木さんの方がずっと素敵なのに……」
「うんうん、聞いたかい酒呑の君? 先程から嬉しいことを言ってくれるじゃないか。もう二、三度言ってくれても構わないんだよ?」
「それ以上は、つけ上がるだけだからやめとけ。ほどほどで満足するのも、佳い女の条件だ」
「やれやれ。ボクは、君に『佳い女だ』と思ってもらえれば、それでいいんだけどね。過剰が嫌いだというのならば、自粛するよ」
随分と積極的に攻めてくる茨木に、酒呑は苦笑いを返すしかない。泰葉より劣っていると見られるのが嫌なのか、それとも本気で酒呑にそう思わせたいのか。茨木の真意は知れなかったものの、酒呑は彼女の思惑通りに返すしかなかった。
「あぁ、お前も佳い女だよ」
「ふふっ、ありがとう」
その時ばかりは、茨木の顔にも老獪な練達者の面影はなく、年相応の少女の顔が見える。
それを見た泰葉は、何となく茨木の心情を読み取り、顔を強張らせていた。
(あ、もしかして、茨木さんも――)
考えてから首を振る。
(も、では、まるで自分もそうだと言わんばかりではないですか!?)
早くなる動悸を抑えながら、泰葉は平静を装う。そう。これはきっと気のせい。大丈夫。自分は何ともない。動揺なんてしていない。そう言い聞かせる。
「泰葉、お前なんか無理してねぇか?」
だが、他人の機微に敏い酒呑に誤魔化しは効かないか。
それでも泰葉は笑顔を見せ、酒呑につけ入る隙を与えようとはしなかった。
「いえ、大丈夫です。平気です」
「そうか? ならいいんだが。まぁ、今晩あたり、お前も大変だとは思うが頑張れよ」
「え?」
「恋文の返歌だよ。連中、そろそろ決行するって意気込んでたし、大量の恋文が送られてくるんじゃねぇのか? ぞんざいに扱うわけにもいかねぇだろうし、返すのは大変だろうが――、まぁ頑張れよ」
う、と泰葉の顔が引きつる。予期していなかったわけではないが、それにしたって時期尚早だ。心構えが全くできていない。
「えぇっと、もう少し後になるとか……、今晩ですか? 本当に?」
「教えることも教えたしね。さっきも書いていたし、十中八九、今晩だろうね」
茨木から嬉しくない情報がもたらされる。
そうか。それであの時、泰葉に見られぬように腕で必死に隠していたのか。気が重くなる思いで、表情を翳らせる泰葉。本当なら、これだけ好いてくれる人間がいることを喜ぶべきなのだろうが――。どうも気乗りがしないのは何故だろう?
「なんて顔してやがる」
酒呑は鼻の頭を掻いて苦言を呈する。
「それだけ、お前さんの器量が認められてるんだ。もっと喜べ」
「分かっていますけど……」
返す泰葉の言葉は、やはりどことなく重かった。