正月の鬼御殿2
「それで、ボクはどこに向かえばいいのかな?」
とりあえず、泰葉が来た方角に向かっていた茨木は追いついてきた泰葉に向けて尋ねる。
酒呑の部屋か、それとも裏の倉庫か。
だが、茨木の予想はどちらも外れていた。
「えっと、炊事場までお願いします」
「炊事場?」
少し歩みの速度を緩めながら、茨木は聞き返す。
意外な答えだ。
「何か足りないものがあったかね? 大抵のものは、この間の市で仕入れたはずだが?」
「そうではありませぬ」
ほんのりと重い口調になりながら泰葉は嘆く。その様子を見る限りでは、材料に過不足はなかったようだ。すると何が原因で彼女は嘆くのか。
茨木がその原因を突きとめようとするよりも先に、足の方が先に炊事場へと辿りついてしまう。何となく嫌な予感を覚えながらも、茨木は炊事場の敷居を跨いでいた。
炊事場には、茨木を呼び出した張本人である酒呑の姿があり、彼は必死に飯を炊いているところであった。竈に向かい、火吹き竹で懸命に空気を送り込んでいる姿は必死そのもの。ぱっぱっと赤い炎が飛び散り、香しい香りが流れてくるところを見やれば、どうやら上手く炊けているようだ。
彼女としては何度も見た光景だが、同時に違和感にも気づく。
(おかしい。何故、酒呑の君しかいないのだ?)
本来の炊事場は当番制で、三人の当直が協力して作業に当たる。
不慣れなものの場合は、茨木が助っ人に入ったりもするのだが、本日に限ってはその心配はなかったはずである。
どうなっているのか、見当がつくよりも先に酒呑の方が気配に気づいたようだ。竃の火に息を吹きかけるのを中断して、茨木たちに視線を向ける。
「よぉ、来たか」
「来たか、ではない」
ぴしゃりと茨木は言い放つ。少しだけ頭の痛くなる思いだ。
「何故、酒呑の君しか炊事場にいない? 他の二人は? 休むなんて話は聞いていないが?」
「何だ、泰葉は説明しなかったのか?」
「説明するよりも先についてしまいました」
しゅん、とうな垂れる泰葉。
やれやれ、とばかりに酒呑は左手に持っていた火吹き竹をくるりと空中で一回転させてつかみとる。
「まぁ、言うなれば、病欠だ」
「病欠? 風邪かい? その割にはボクのところに薬のひとつも取りにきていないようだが?」
「いや、二日酔いだ」
「…………」
酒呑に対する疑惑の視線が深まり、彼は致し方なしに肩をすくめてみせる。
「人間、たまには羽目を外したくなる時もある。二人にとって、昨晩がたまたまそうだったということだ」
「嘘です! 酒呑さんがお正月も終わりだからと、お二人を誘ってつぶれるまで呑ませたのです!」
「こら、泰葉! 黙ってれば分からねぇものを! 裏切るんじゃねぇ!」
「折角手伝って頂こうというのに、嘘をつくだなんて不誠実です! 誠意が見えません!」
「なにを! 一丁前に!」
酒呑が泰葉の頬をつねる。
泰葉はあわわと酒呑の手をつかみ、引き剥がそうと必死になるが、変幻自在に躱す酒呑の腕は曲者で、なかなかに引き剥がせない。
その内、泰葉の頬が赤くなったあたりで、酒呑は手を離していた。
泰葉は涙目のままに屈み込む。
「うぅ、酷いです……」
「裏切り者には相応の罰を与えなければならねぇ。心苦しいが、これも試練だ。許せ」
神妙そうな顔で括る酒呑の顔を覗き込み、茨木は「ほぅ」と鋭く吐き出す。
その様子に、びくりと酒呑は背を震わせる。
「ならば、酒呑の君も然るべき罰を受けねばなるまいね? 何せ、この鬼御殿に棲む鬼たちの飯を作り損なうという大失態を冒すわけだし」
「いや、まだ作り損なったわけじゃあ……」
「それで罰は何がいいかな? まさか、頬を抓るなどといった甘っちょろいことは言うまい。空腹に耐えかねた彼らを黙らせるには、そんなお遊びでは通用しないからね」
「いや、その、だな……」
「そうだな。彼らの空腹を解してみるためにも、ひとつ禁酒と洒落こんでみては如何かな? そうすれば、彼らの気持ちを解せるかもしれないよ。それとも、食事を一週間ほど抜いてみるかね? 泰葉君でも耐えられたんだ、鬼の大将に耐えれぬはずもあるまい。それとも――」
「ま、待て! 分かった! 分かったから!」
慌てて酒呑は茨木を止める。
これ以上、彼女に口を開かせていては状況が悪化するだけだ。
それが分からぬほど、酒呑も馬鹿ではない。
彼女は酒呑を睥睨する。
「それで? 言うことは?」
「すみませんでした。俺が悪かったです。なので、飯を作るのをどうか手伝ってはもらえないでしょうか」
実に素早く地面に膝をつくと、畏まって土下座する。何とも軽い男であった。
「全く……。けど、お酒を控えるようにするのは罰として受けてもらうよ。ひと月とは言わないけど、量を減らしてもらう。君が平気でも周囲が迷惑しているのは事実だからね?」
「そ、それはっ、俺に死ねと言っているようなもんだぞ!? 勘弁してくれ!」
「酒呑の君、残念だが人は酒量を少し減らしたぐらいでは死なない。観念し給え」
「いや、そんなことはない! きっと死ぬ! なぁ、泰葉? お前もそう思うだろ?」
「酒呑さんは、一度ぐらい死んだ方がいいと思います」
「ヒデェッ!」
頬の痛みに涙目になる泰葉に恨み言を呟かれ、酒呑は誰の助けもなく、その場に沈む。鬼たちを取りまとめるだけの大きな度量をみせたかと思えば、今度は一転して器の小さな男。
茨木はそんな酒呑が計れずに、困ったように片眉を上げていた。
まぁ、彼にとっては良い薬というしかあるまい。
茨木は気持ちを切り替え、竈とは反対方向にある巨大な簀子が敷かれた流し場へ至る。そこには、水の張った桶が置かれており、桶の中には洗いざらしの野菜が転がっている。近場には、まな板と包丁も置かれており、囲炉裏もすぐ近くにあるので、軽く調理するには十分な環境だ。
「何はともあれ、昼食の支度はしないといけないね。ボクと泰葉君でおかずと味噌汁を作るから、酒呑の君は米を炊いてくれ給え。できるだろう?」
「酒……」
「酒呑の君!」
「は、はいっ!? できます! お米を炊くのは大得意です!」
「よろしい。泰葉君は味噌汁を頼めるかい? 出汁を取るのに時間が掛かるかもしれないが」
「大丈夫です。任せて下さい」
好い返事が返ってくる。膨れっ面から一転。きびきびと調理に取り掛かる泰葉の姿は三ヶ月前からすると見違えていた。最初はろくに包丁も扱えなかったというのに、今では材料を用意し、鍋に火をかけ、出汁を取っていく手際のよさ。それこそ、惚れ惚れするほどだ。泰葉の物覚えの良さは茨木が内心で舌を巻くほどであり、それだけ、成長の度合いが著しいことを示している。
(それを見抜いて、助っ人に呼んだ酒呑の君もなかなか抜け目のない人選をするね。……褒められないけど、全く)
茨木は、この面子であるのなら、遅れていた昼食の準備も何とか間に合うであろうと予測する。桶で洗った野菜を簀子の上で水を落とし、淀みなく皮を剥いていく姿は、彼女もまた達者ということか。その動きに余裕が見え隠れもする。