頼光1
京の大道朱雀大路より東、左京の一条通りに簡素な邸宅が一軒あった。
簡素、といえども、それはあくまで周囲に建ち並ぶ豪奢な屋敷と比べての話である。塀もあり、庭もあり、広き部屋が幾つもある様子は、平民から見れば羨むべき『お屋敷』だ。
だが、貴族の側からすると、これが『何とも慎ましやかな生活ではないか』となるらしい。
どこが慎ましやかなのかと尋ねると、彼らはきっとこう答えるだろう。
庭には桃源郷を模した植生もなく、ただ砂利が敷き詰められただけの造り。屋敷の中も同様で、敷居は総じて鎧戸で区切られ、床にいたっては畳のひとつも敷いていない。
だから、慎ましやかなのだ、と――。
そんな質素を絵に描いたような屋敷の庭で、一人の男が長弓の弦に矢筈を番え、首だけで正面を向いていた。
獲物を狙う鷹の如き鋭い眼光。
ともすれば、眼差しだけで人を射殺せそうな様は鬼気迫るものがあろう。
そんな男の見据える先。
そこには三十間程離れた距離に、台に乗った巻藁が置かれている。
男の狙いは、どうやらその巻藁のようだ。
距離としてはかなり離れているが、長弓の射程なら狙えぬ距離ではない。
男が静かに矢の水平を保ちながら、ゆっくりと弓矢を頭の上にまで上げる。
そして、淀みなく左腕を的に向けて開くと、右肘が弦に引かれて自然と上がっていった。男は静かに両肘に力を入れ、矢の位置を頭の下の位置にまで持っていくと、続いて山の如くに動きを止める。
刹那の集中。
男の脳裏に浮かぶのは、ただ的を射ることだけ。
余計な雑念が消え、周りの音や景色が遠のいていく。
視界から余計なものが消え、白くなった世界。
その世界の中で男は的の存在を感覚的に感じ取り、迷うことなく弓を引く。
びっ、と空気を引き裂く音が聞こえる。
弦から離れた右腕は後方に流すようにして、視線は切らずに矢の行方を見据える。
一瞬で中空を突き破るようにして走った矢は重々しい音を響かせ、巻藁の後ろ、凡そ四十間も先にあった土壁に見事に突き刺さっていた。
その状態をしばらく見守った後で、男は姿勢をゆっくりと元に戻す。
「やはり、道長公や弟のようにはいかぬか」
男は冷静に自分を見つめ直すように呟くと、強く息を吐き出し弓を下ろす。
――と、そんな男の様子を見ていたのか、どこからか乾いた拍手の音がする。
男は屋敷の縁側へ視線を向けていた。
「いや、お見事」
「綱か。きていたのか」
何の感情も見せずに男は呟く。
綱と呼ばれた四十代半ばの男は縁側にだらしなく腰掛け、男に軽く流されたことに対し、「全く誉め甲斐のない男だ」と笑って答える。
「そもそも、私は的を外している。誉められようはずもない」
男の年齢は、綱と呼ばれた男よりも更に上だ。
四十も後半ぐらいか。
それでも、枯れた老木というよりは、数多くの年輪を刻んだ大木という感じがするのは、男の放つ凄まじい威圧感のせいか。その気概が、彼の実年齢を軽く十は若くみせていた。
「なに、私が誉めたのは的を外しても、更に遠くにある土壁を貫いた弓威のことだ。滅多なものには引けぬことだろうよ」
確かに、戦場であんなものを受けたら、鎧など関係なく相手を射殺せるだろう。
だが、当たらなければ意味がないのもまた事実だ。
男は困ったように片眉を上げると、ぽんっと腰に佩いていた得物を軽く叩いて返す。
「いや、やはり私にはこちらの方が性に合う」
「そうか――。いや、確かに」
綱も得心がいったのだろう。笑って返す。
男の名を源頼光といい、備前守の地位に位置するものであった。
備前守というと、京の西にある備前国を治めねばならぬ立場なのだが、彼は代理のものに任地を預け、こうして、ずっと都で暮らしているのだ。
それは、備前の国が田舎だからだとか、住み慣れた土地を離れ難いだとか、そういった感傷の類のものではない。
彼がここに留まっているのは、彼が真に惚れ抜いたひとりの男がこの地にいるからこそである。
そのものの名こそ、藤原道長。
いずれ、この国を背負って立つであろう傑物だ。
「それで何用だ? 綱よ」
胡乱気な視線を向ける。
本日は頼光の邸宅に、来訪の予定のものはいなかった。それが、こうしてここにくるということは、火急の用でもあったのかと、彼は訝しんだわけだ。
「ふむ。早めに頼光殿の耳に入れておいた方がいいと思ってな。中間報告だ」
この男、藤原頼光の右腕としても信の厚い男で、名を渡辺綱という。
実直を絵に描いたような頼光とは対照的で、涼やかで軽々しい男だが実力は折り紙つき。頼光四天王と呼ばれる中でも、副将格と噂される男であった。
「例の件に関してだ」
「あぁ、あれか……」
例の件とは、道長から頼まれていた藤原邸襲撃事件の犯人探しに他ならない。道長本人からの密命として与えられた、この任務はそれだけ重要な案件である。
頼光もそれを察したからこそ、腹心である綱に直々に調べさせていたのである。
そして、その中間報告。
頼光は表情の変わらぬ厳しい顔で縁側に座る。
「どれ、聞こう」
「芳しくない」
綱は要点を先に述べた。
「有力な情報もなし、死んだ人間の身元も割れなんだ」
藤原邸襲撃の際、家人の死体とは別に夜盗の死体と思しきものも転がっていた。その者の素性を調査したのだが、科学捜査もない時代だ。文字通り、死人に口なしである。
「何しろ、多くの人間が京の街に流れてきては去っていくのでな。流れ者の素性などいちいち覚えているものも少ない」
「ふむ。亡骸より辿るのは難しいか」
「うむ。故に、少々方式を変えてみることにした」
「ほう」
「ここ最近で、あの屋敷について調べているものがいないか探ってみたのだ。そうしたところ――」
「出たか、埃が」
「決定打とはいえないが、それらしきものがいたようだ。ただ情報を聞く限り、人相や特徴が全てバラバラで、特定のしようがない」
「それだけでも随分な成果だ。これで犯人が複数人である可能性が高くなった」
「あぁ、私もそう思う。踏み込んだ時の形跡から見ても恐らくはそうだろう」
「他には?」
「羅城門の夜盗を少し脅したら、面白いことを喋った」
「何だ?」
「犯行の夜に、検非違使の動向を気にしていたものがいる」
「ほう」
「そいつは、大江山の酒呑童子の連れを名乗ったそうだ」
「大江山の……」
鬼神能面のような頼光の表情がぴくりと動く。
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