農耕2
土の香り。柔らかな陽光。そして時折吹き抜ける秋風。労働の中、いつしか白い肌には珠の汗が浮かび、白い衣装も土に塗れて黒くなっていく。
途中、酒呑が心配して着替えた方が良いのでは、と提案するが、彼女は一向に構わないと一蹴していた。
何にも増して、体を動かす喜びが優っている。
何故、こんなにも嬉しいのか、楽しいのか。
泰葉はそう考えた時に理由に気づいた。
そうか。これは器の仕事ではないからだと――。
器が牛蒡を掘るなんて聞いたことがないし、器はそんなことをすることもないだろう。牛蒡を掘るのは、あくまで人間の仕事であり、そして、泰葉は今確実に人間として扱われているのだ。
だから、嬉しいし、楽しいのだ、と――。
酒呑に感謝をするのは少しだけ癪だったが、彼は事情を知っても尚、彼女を特別扱いはしなかった。その点だけは、本当に感謝しても、し足りないだろう。
彼は人間として、自分を扱ってくれている。
ひとつの個として自分に当たってくれている。
彼女を色眼鏡などで見はしない。
その気持ちが嬉しかったし、ありがたかった。
そして、彼はそう考えているからこそ、自身をさらけ出し、あんなにも奔放に泰葉に当たるのだろう。
泰葉の楽しそうな顔が徐々に深まっていく。
(少し……。少しだけ、私は勘違いをしていたのかもしれない。不敬で、非礼で、不躾で、傲岸不遜で、いい加減……。でも、彼の本質は違うところにあるんじゃあ……?)
それが分かった時、泰葉の心には少しだけではあるが、温かいものが去来していたのである。
(これは何……? この気持ちは……?)
自分自身の心持ちの変化に戸惑いながらも、せっせと土を掻き出し、掘り進むこと三十分。
途中、酒呑が手伝った部分もあったが、泰葉はなんとか腰ほどまでに届く穴を人一人が入れるような広さで掘り下げていた。
その経過を見ていた酒呑も満足そうに頷く。
「まぁ、こんなところだろうな」
「そ、そうですか……!」
珠のような汗を額に浮かべ、息の上がったままに泰葉は安堵の溜息をつく。
ここまでは、主に筋力を使う仕事だ。
体力さえあれば、易々とできることだろう。
だが、次は少しばかり技術が必要となってくる。
「次に牛蒡を引き抜くぞ。ちょっと土を払ってみろ。牛蒡の根が見えてくるだろう?」
言われた通りにやってみると、掘った穴に沿って牛蒡の根がみえる。
「それを引き抜くんだが、牛蒡は堅い野菜でな。変に力を入れるとポキリと折れちまうんだ。だから、なるべく真っ直ぐに引き抜く感じで引き抜きな」
「ま、真っ直ぐですか」
恐る恐るといった調子で泰葉は牛蒡を引き抜こうとする。
だが、牛蒡はきっちりと根を張っているのか、土が少し動いただけで易々とは抜けなかった。
慎重に牛蒡から手を離す、泰葉。
少々、酒呑の言葉で萎縮している部分があるか。
気持ちを落ち着けるようにして、泰葉は自分の胸に軽く手を当て、呼吸が整うまで待つ。
――と、胸に当てていた手が一際高く跳ね上がった気がした。とくんっと水面を跳ねる魚のように、泰葉の心から何かが湧き出してくる。
(あれ?)
その大きな鼓動がきっかけになったわけではないだろうが、泰葉は自分の気持ちが波紋一つない湖面のように澄んでいくのが分かった。
(何だろう。不安が消えていく)
動揺も怯えもなく、泰葉はしっかりと牛蒡の根に手をかける。手をかけた瞬間にどれぐらいの力で引き抜けばいいのか。
それが『理解』できた。
何の疑問も抱くことなく、その指示に従うようにして力を入れると、牛蒡は思っていた以上にすんなりと引きぬかれて地中から姿を現す。
あまりの手応えのなさ。
そのために、泰葉はぐらりと体勢を崩してしまっていた。
「おっと」
土の上に倒れこみそうになった泰葉の体を左腕一本で支えたのは酒呑だ。
牛蒡を抱き込むようにして酒呑に体を預ける泰葉は、気恥ずかしさのあまり顔から火が出そうであった。
できるならば、もう少し体を離してもらいたい。
だが、酒呑はそんな泰葉の気持ちには気づかないのか、驚いたような声をあげる。
「いやぁ、参ったぜ。抜いた時は玄人かと思った」
「そ、そうでしたか!?」
誉められて興奮する。慌てて振り向くと、思っていた以上に酒呑の顔が近くにあり、泰葉は思わず顔を背けてしまう。
何もそんな近い位置から覗き込まなくてもいいではないか――。
思わずそんなことを呟きかけるが、その言葉の方がよっぽど気恥ずかしいと気づき、どうにかその言葉を飲み込む。
「だが、その後が油断ありすぎだな」
「す、すみません……」
今度は突き落とされて、しゅんと項垂れる。
千変万化する表情に苦笑を浮かべながらも、酒呑は改まって彼女に対し口を開いていた。その目はどこか子供の成長を見守る親のようだ。
「それでどうよ?」
「どう、とは……?」
ぶっきらぼうな口調で告げられた質問の意図が分からずに、彼女は尋ね返す。
「初めて牛蒡を掘った感想は?」
「えっと……」
疲れた、満足だ、新鮮だった、驚いた、大変だった。
色々と思い浮かんでは消えていくが、多分こうなのだろうな、という答えは彼女の中にはひとつしかない。
「暖かかったです」
「暖かかった、ねぇ」
面白い感想だな、と酒呑は笑う。
変わっているかと問われれば、そうなのかもしれない。だが、周りの環境や人間が泰葉にそう感じさせたのも事実なのだ。
彼女は穏やかに微笑みを浮かべる。
麗らかな秋の日差しが、体にも心にも温かい午後。
彼女はそこで自分の幸せを見つけたかのように、笑みを深くするのであった。
明日も12:00、18:00で更新致します。