農耕1
大江山の入り組んだところにある鬼御殿。
その裏手には元々名も知らぬ寺院が建っていた。
黒漆を塗った門額は長年の風雨に晒されたためか、名を読み取るには難しく、朽ち果てるには多少早いのか、掠れた文字で――寺とだけ読める文字が書かれている。参拝するもののなくなった寺院は如何な寺だったのか、どんな教義を行っていたのか、それを知る術はない。
そんな名も知らぬ寺の一部を取り壊し、畑にしてしまおうと言い出したのは他ならぬ酒呑であった。神仏をも恐れぬ、元稚児の提案は腹いせや嫌がらせに端を発しているわけではない。
大規模な盗賊組織である大江山の鬼たちだが、その仕事の成果には大きなムラがあったからである。
毎晩のように盗みを働くこともあれば、月によっては二、三回しか盗みをしない時もある。
収入と支出が非常に不安定な生活。
そんな危うい均衡の上に成り立っていた鬼たちの生活を、せめて食事の面だけでも改善しようしたのがこの開墾だったというわけだ。
特に畑を耕し始めた三年前と比べると、糧の面ではかなりの不安がなくなり、余裕を持って行動することができていた。
そんな農地で仲間と共に牛蒡の様子を確認していた酒呑は、誰かに呼ばれたような気がして周囲を見渡す。
その視線は、やがて御殿の縁側で手を振る茨木と、その脇に立つ小柄な少女へと向けられていた。
「で、掘り出すん、大将? ……大将?」
「ん、あぁ、ちょっと待っててくれや」
虎熊の言葉にぞんざいな返事を返しながら、酒呑は持っていた鋤を虎熊に預け、彼女たちのもとへと足を向ける。
近づきながらも酒呑が疑問に思ったのは、あんな娘が仲間内にいたものか、というものだった。
見たことのない顔。
だが、あの衣装はどこかで見たような?
思い出そうとしてもいまいち思い出せずに、やがて酒呑は諦める。思い出せないということは、そこまで大切なことでもないのだろう。
投げやり気味に考え、彼は軽く手をあげていた。
「よぉ、どうした茨木? 野菜の方だったら、まだ収穫してねぇぞ。それとも、今日はやめとくか?」
「残念だけど、用があるのはボクの方じゃなくてね。こちらの姫君の方なんだ」
「ふむ、多少気になってはいたが。……誰だ?」
「分かりませんか?」
不敬な物言いに多少機嫌を悪くしながらも、少女が強気な瞳で酒呑を睨む。
このあからさまな敵意は見たことがある。
「泰葉――、か?」
「そうです」
「……。まさか、一晩でこんなに『ふやける』とはな。驚きだ」
「認識して早々随分な挨拶ですね」
泰葉はそう言って不機嫌そうに鼻を鳴らす。
しかしまぁ、見違えたのも事実だ。
昨晩までは確実に干物か、即身仏かといった状態だったのが一晩でこれだけの回復をみせたのだ。酒呑でなくとも驚くことであろう。
現に、畑で酒呑を待つ野盗たちも、あの貴人は誰だとばかりに目を丸くしている。
「気分を害したというのなら謝る。何分できの悪い頭でな。非礼なのは勘弁してくれや」
「別に、そんなことを責めにきたというわけではありませんし……」
もごもごと口の中でこねるように言い、泰葉は視線を逸らす。酒呑をまともに見られないのは、彼女が彼を嫌っているという以上にどこか引け目を感じているからか。
世を拗ねている自分とは違い、この男は随分と明け透けに生きている。
礼一つ言うのにも不満を漏らしていた自分が何だか矮小に思えてくるので、彼女はこの男が嫌い――というより苦手に思えてくるのだろう。
「じゃあ、何を言いにきた? 用事があるんだろう」
「えぇ、まぁ、その、ですね……」
「うむ」
「お……、お水、ありがとうございました。あれで少しは楽になりました。本当に少しですけど……。その礼を……」
「ほぅ」
珍しいものでも見たかのように、酒呑はしげしげと泰葉を見つめる。
素直に礼を言う泰葉は出会った時と比べてどこか意固地な感じが薄れたか。例えるなら、孤高に咲く野バラから、夜半に咲く月見草になったぐらいの変化だ。
まぁ、どちらも普通とは言えないが。
「な、なんですか、その目は!?」
「いや、お前さんも素直に礼が言えるんだなと思ってさ」
「失礼な! 私は元々素直な性格です!」
憤慨する様子を見れば、そうでもなかったか。
焼いた餅のように頬を膨らます泰葉に向かって、気にするなとばかりに酒呑は告げる。
「まぁ、昨日の件は俺が一方的に悪かったから恩に感じる必要はねぇぞ」
「当たり前です! どういう頭をしているんですか、あなたは!?」
反省など微塵もする気がない酒呑。
その様子に歯噛みをするように泰葉が吠え、酒呑は噛み殺した笑いを漏らす。
「それで? 二日酔いの具合はどうなんだ?」
「二日酔いというのですか、あれは――。まぁ、大分楽になってきましたけど……」
どこか警戒するように泰葉は構える。
昨晩の前例があるだけに、そう簡単に気を許しはしないということか。
だが、酒呑はそうかそうかと楽しそうに手を叩くと、茨木に向けて視線を向けていた。
その口元が自然とつりあがっているような気がする。
「茨木はこの後、こいつに炊事を手伝わせる気か?」
「いや、特にそんな予定はないけど……」
「それじゃあ、コイツを少し借りるぜ。――よし、泰葉来い!」
「か、借りるって……。人を物のように!」
文句を言いかける泰葉だが、酒呑にあっという間に片腕を取られ、逃げ出すこともできない。仕方なく彼女は酒呑に従い、その場に揃えてあった浅沓を履いて畑まで連れ出されてしまっていた。
そこには、泰葉も昨晩の宴会で見た顔が何人かいる。
「まぁ、ここにいる連中の紹介は面倒くさいから省くとして……。おう、お前ら、こいつは泰葉だ。よろしくしてやってくれ!」
酒呑がそう声をかけると、野太い声で次々に挨拶が掛かる。
思っていたよりも好意的な態度。
うがった見方でみれば、京の貴人がこんなところで何をと思うのかもしれないが、そんなことを思うのは一部の鬼たちだけだ。大方の鬼たちはどうやら歓迎する雰囲気のようであった。
それは、彼らが存外に素直な性格であったというよりも、泰葉の容姿によるものか。
滅多に見れぬような器量良し――。
その時代の美的観点からいえば、痩せぎすの泰葉は器量良しに該当しないはずなのだが、それを補ってあまりある、どこか護ってやらねばならぬ儚い雰囲気が美しさとなって認識されているのだろう。
特に、この時代の日本は、儚きもの、小さきものに格段の愛おしさを覚える時代でもある。静かな熱をもって受け入れられた泰葉は、若干強ばった愛想笑いで彼らの挨拶に答える。
どうやら、少しばかり身の危険を感じているようだ。
「まぁ、基本的に悪い奴らじゃねぇから、泰葉の方も宜しくしてやってくれや」
「はぁ」
そんな泰葉の態度には気づかないのか、適当に挨拶を切り上げさせた酒呑は虎熊から鋤を受け取りながら、素早く脳内でやるべきことを整理していた。
「んじゃ、そろそろ仕事に取り掛かるぞ。そっちの三人は茄子の収穫をやってくれや。んで、俺と泰葉とあと四人は牛蒡の収穫の担当だ。掘り出すぞ。――で、中央の五人は大根を頼む。あと残った連中は猪対策に柵建てと、御殿を囲む塀の建築だな。こっちの方は、特に木工の仕事が得意だった金熊に指揮を執ってもらいてぇんだが、できるか?」
「そう聞かれて、できぬとは言えぬよ」
金熊が力強く頷く。
それを見て、酒呑はぱんっと手を叩いた。
「よし、決まりだ。じゃあ、自分の担当で必要な道具を持ちな。日暮れまでには終わらせんぞ!」
おうっと威勢のよい掛け声。
各自がそれぞれの持ち場に散っていき、残された泰葉は得体の知れぬものを見るかのような目で酒呑を眺めていた。彼の思惑がはかれないのだ。
「なんだよ。不安そうな目なんかしやがって」
「べっ、別に不安そうな目なんてしていません!」
「まぁいいさ。ほれ」
そういって手渡されたのは、ずしりと重量を感じる一本の鋤。先端部が鉄で補強されたそれは、土を掘り起こすのには随分と便利そうにみえる。
とはいえ、そんな道具を何の説明もなしに渡されても戸惑うだろう。
泰葉は、尋ね返すようにして酒呑に目を向けていた。
「そいつで、牛蒡を掘り起こすんだ」
「え?」
何で自分がそんなことをしなければならないのか。
抗議しようとした矢先に、酒呑の右手が泰葉の目の前に突き出される。
痛々しい火傷の痕。
皮膚が爛れ、未だ悲惨な状態であるのを見せられては、彼女も言葉を飲み込むしかない。
何せ、怪我を作った要因が自分にあるのだ。
義務はなくとも、義理や負い目がある。
鋤を握り直し、泰葉はひとつ嘆息を吐き出していた。
気乗りはしないが、仕方あるまい。
「分かりました。やればいいのでしょう……。それで、ゴボウというのは?」
「足元に生えているだろう? それだ」
鮮やかな緑色の葉を一度丸めて皺くちゃにしたら、こんな形になるだろうか。どうやら、この葉の下に牛蒡が埋まっているらしい。
泰葉はやれやれとばかりに、無造作に土に鋤を突き立てようとする。
「待て待て待てッ! いきなり、鋤を突き入れようとするなッ!」
だが、慌てた酒呑によって、その試みは寸でのところで防がれていた。
虚を突かれたかのように泰葉の動作が止まる。
「? 掘り出すのでしょう? 鋤を入れねば、掘り出すことはできませぬよ?」
「確かにそうだが、牛蒡ってのは地中深くに真っ直ぐに伸びてる野菜なんだ。そんな風に斜めに鋤を入れていったら折っちまう」
「でも、こうしないと土が掬えません」
「だから、こうしてだなぁ」
泰葉から鋤を受け取った酒呑は、左腕一本だけで器用に操ると、その刃を大地に垂直に立てていた。
そして、片足を鋤にかけて刃を埋めると、今度は何もせずに引き抜く。
「目印をつけるんだよ。あとは茎に沿った感じで目印を目掛けて少しずつ横に掘っていく。穴が少し掘れたら今度は大きく土を掬い上げて、徐々に深く掘り進めていくんだ。そうすりゃ、牛蒡を傷つけることはねぇからな」
「な、なるほど」
感嘆のため息が漏れる。
まさに百姓の知恵か。
鋤を手渡された泰葉は早速それを実行しようとするが、土に突き刺した刃が思うように進んでいかない。
(おかしい……。あの人の時は、もっとこう、自然な感じで刃が埋まっていったのに……)
不満顔が外に出てしまっていることにも気づかずに、泰葉は懸命に考える。
そういえば、先程、酒呑が鋤の刃を深く埋める際に、刃の背を足で蹴っていなかったか?
いや、蹴ったというよりは、体重を乗せていた?
ものは試しとばかりに、見よう見真似でやってみる。
すると、思っていた以上にすんなりと土に鋤が入っていくではないか。
「!?」
ずずっと土の中に刃が入っていく様子に、泰葉は思わず頬を緩ませていた。
これは思いのほか楽しい。
軟禁されていた分、体を動かすことに特別な魅力でも感じるのか、泰葉の体は極めて単純な肉体労働に至高の喜びを感じ出す。
鋤で土を掘り返したくてたまらない。
「お、いい感じじゃねぇか。そんじゃ、土をどけるのが辛くなってきたら言えよ? 細けぇ作業はさすがに無理だが、力仕事なら力になれるからな」
「あっ、はい」
思わず頬を赤く染める泰葉。自分の無防備な笑顔をまじまじと見られていたかと思うと、顔から火が出る思いだ。
それでも、欲求がおさまりをみせなかったのは、彼女が自身でも言った通りに素直な性格だったからなのか。
割と楽しそうに穴を掘っていく。
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