狂気
古衛リシアは、白師静江の言葉を信用する事は無かった。
その手に持つ魔道書、"猛犬の師"を、他ならぬ恋敵によって選出されたこの本を、安心して使用しても良いのだろうか、と。
「………ん?どした?」
静江は古衛の感情を見抜いているにも拘らず、その様な知らぬ素振りで言葉を伝う。
何を考えている、何を行おうとしている、敵に塩を送るとはこの事だ、絶対に信用してはならない、すれば後々後悔する事になる。
けれど、何を考えているのか考えれば、考えれば考えるほどに、思考は毛糸の様に絡まっていく。
狂気の瞳は狂気の瞳を見つめる、獲物を見つめる瞳と、獲物を殺す瞳。
「貴方は、一体、私に何をしろと言うのですか?」
古衛は言葉を吐いた、苦肉の策ともいえる、至って何の捻りも無い問答。
言葉は殺意を交じわす、それでいて恐怖も微かながら含まれていた。
「なぁに、私は仲間が欲しいだけだよ、狂気を含む奴はそう居ない、それに、ほら」
極めて単純に、純真無垢な笑顔を古衛に向ける。
舌なめずり、滴る肉の雫の音を聞く獅子の如く、甚振りどう潰すかを考える獣の様に。
「楽しいだろ?」
その一言で、彼女がどれほどの狂気を秘めているかを理解した。
単純だ、至って単純で、理解に苦しむ。
彼女、白師静江は自らと同等な狂気を持ち合わせる人間を作ると言ったのだ。
それがどういう意味か、狂気の果てに気が付くだろう。
彼女は同類を求めている、同じ獲物を狙う怪物を欲している。
「たの、しい?」
理解不能だ、解析も無駄に終わる、意味の無い考慮などとっくの昔に必要を破棄していた。
「あぁ、アイツを愛す奴が何人も居る、お前も見えるんだろ?あいつが、獣を堕落させる、甘い蜜を滴らせる奴だってさぁ」
愉快に笑う、愉悦に浸る。
白師の瞳には既に光は無い、頬を赤く熟し、熱の篭った吐息を漏らす。
「でも、私はそれ以上に、欲しいものがあるんだよ、獲物を奪い合う獣がさ、私はね、士護帳を愛している、それ以上に、士護帳を狙う獣を愛しているんだ」
彼女は、彼を全てを愛す、そして、彼を愛す者も彼と同等に愛す。
絶対的な平和主義者、一人の男に対して、複数の女性との関係を赦しているのだ、白師と呼ばれる女は。
「これって敵に塩を送るって言うのかな?いや、これは誘いだな、辛い塩よりも、甘い蜜の方が断然いいだろ」
狂気は狂喜へ、彼女の嬉々爛々な表情は、乙女の微笑よりも、眩しく、歪んでいる。
「―――は」
そうか。
そうか、
そうかこの感情は。
私が敵意として観た人間は、私が邪魔する奴だと思っていた奴は。
「あぁ、そうですね………なんで気が付かなかったんでしょう」
あぁ、そう、この、この破裂する感情は嫉妬でも憎悪でも殺意でもない。
「"楽しい"」
狂喜、狂乱に溢れた愉悦の感情。
彼女は到達した、狂気を持ち合わせる人間を見据える事で。
彼女は、一心不乱の狂気へと変貌していた。
「楽しいかい?嬉しいかい?」
白師は言葉を漏らす、独り言の様に小さな声。
「あぁ、楽しい、嬉しい、こんなにも、こんなにも―――」
その言葉に合わせるかのように喋る古衛、しかし、彼女達の会話は独り言だ、話が噛み合ってはいない。
「嬉しいなぁ嬉しいなぁ、楽しめるんだな、傷ついて、傷つけれるんだなぁ」
「殺し合い、それが嬉しいなんて初めて知った、そうなのですね、これが、高揚、というものなのですね」
今日、この場で、またひとつ、新たな狂気が誕生する。
名前は古衛リシア、"猛犬の師"の魔道書を持ち合わせる、唯一人の槍使いである。